春の終わり、心がぽっかりと空く夕暮れがある。桜が散ったあとの静けさが、妙に胸を締めつけるような日。
とある男性が、公園のベンチでそっと深呼吸をした。60代後半、定年後の暮らしにも少し慣れた頃。けれど、どこか気持ちが晴れない。
「このまま、何かを失いながら老いていくだけなのか」
そんな思いがよぎったとき、ふと頭に浮かんだ言葉があった。
人間万事塞翁が馬(にんげんばんじ さいおうがうま)
若いころは意味が分からなかった。けれど今、この年齢だからこそ、その深さが胸に染みてくる。
喜びも悲しみも、ほんの途中経過
その男性が若い頃、ひとつの大きな転勤を経験したことがある。
栄転とも言われたその辞令に、家族は困惑した。子どもたちは友達と別れ、妻は慣れない土地で孤独になった。
最初の数年は、毎晩のように「こんなはずじゃなかった」と思った。
ところが10年経った今、その土地で出会った人々がかけがえのない友人となり、子どもたちは現地の文化や言語を学び、ぐんと成長した。
そしてある日、妻が言った。
「いま思えば、あの転勤がなければ今の私たちはいないね」
その瞬間、彼は気づいたのだった。
あの“災難”に見えた出来事は、実は“幸運”への入り口だったと。
人生とは、何が幸か不幸か、終わってみるまでわからない。
「失うこと」にしか見えなかった日々
定年後、彼はまた「喪失」と向き合うことになる。
職場での肩書き、日々の役割、社会とのつながり。
どれも自分という人間を形作っていた“パーツ”だった。
それが一気に剥がれ落ちたような気がして、 心にポッカリと穴が空いた。
友人の死、体力の衰え、子どもとの距離感……。 日々の小さな変化が、時に「人生の終わり」を予感させる。
そんな中で再び出会ったのが、「塞翁が馬」という言葉だった。
幸福だと思った出来事が、不幸につながることもある。 不幸に見える出来事が、幸福の始まりになることもある。
人生のすべては“途中経過”。 いま感じている痛みも、きっと何かの扉を開けている最中なのかもしれない。
そう思えたことで、彼は少しずつ「肩の力を抜く」ことができるようになった。
いま、この歳だから見える景色
70歳を目前にした彼は、ある朝、洗濯物を干しながら 空を見上げた。初夏の風が、肌にやさしい。
若い頃には“痛み”にしか見えなかった出来事が、 いまでは“財産”として心の奥に残っている。
大切な人との別れも、健康を失いかけた経験も、 すべてが「生きている証」だった。
どんなことも、無駄ではなかった。
そう実感できたとき、「塞翁が馬」の言葉は、 もはや“ことわざ”ではなく、“支え”に変わっていた。
「これからも、何があるかわからない。 でも、それでいい。 それが人生なんだ」
彼の心は、少しだけ軽くなっていた。
あとがき── 心が折れそうなとき、そっと思い出す言葉
「人間万事塞翁が馬」── この言葉が教えてくれるのは、
今この瞬間の出来事だけで、人生を判断しなくていい。
という“ゆるし”だ。
嬉しいことも、つらいことも、 それはまだ“途中”でしかない。
だから焦らなくていい。落ち込んでもいい。
目の前にあることが、将来どんな意味を持つかは、 きっと何年も先になってから分かる。
もし、今つらさや不安の中にいるなら、 この言葉をそっと胸に置いてみてほしい。
つらい今も、きっと何かにつながっている。
あなたの今日が、明日の希望に変わる日がきっと来ます。
──にんげんだもの。