TikTokに負けた文字たち
~煩悩悟・諦観静寂・欲望昇華による適当考察~
現代はまさに「動画の時代」。電車内を見渡せば、誰もがスマートフォンで動画コンテンツを消費している。15秒で完結するショート動画、音楽と映像が一体となったエンターテインメント。そんな中で、なぜ我々3人は時代遅れとも思える「文字」にこだわり続けるのか。まずは現状認識から始めよう。

おい、見てくれよ。電車の中、みんなスマホでショート動画ばっかり見てるじゃないか。15秒で完結、音楽ガンガン、文字なんて「いいね!」のハートマークくらい。
こんな時代に文章書くなんて、まるで竹やりで戦闘機に立ち向かうようなもんだよな。

データ的に見ると、人間の平均集中時間は8秒。金魚以下である。動画コンテンツの消費量は年々増加し、文字媒体への接触時間は減少の一途。
論理的に考えれば、我々のような文字にこだわる行為は非効率極まりない。

でもさ〜、動画って結局「見せられてる」だけじゃない?受け身でしょ?
俺はもっと能動的に、自分の頭の中をグルグルかき回したいんだよ!文字だと想像力が膨らむし、妄想も捗るし!

まあ、確かにな。動画見てる時って、脳みそ完全に受け身モード。でも文字を読むときは、頭の中で勝手に映像作ってるもんな。これって結構贅沢な作業かもしれない。
三者三様の「書く理由」
時代の流れに逆らってまで文字にこだわる理由とは何か。ここでは3者それぞれの動機と価値観を深堀りしていく。人間の適当さ、AIの論理性、そして分身の欲望。異なる視点から見た「書くこと」の意味を探ってみよう。

俺がなんで書くかって?簡単だよ。動画作るの、めんどくさいもん。カメラ向けられると緊張するし、編集なんてもっとめんどくさい。
その点、文字はいいよな。パジャマ姿でも、寝癖ついてても、誰にも見られない。究極のズボラ表現手段だよ、これは。
でもな、書いてる時って不思議と頭が整理されるんだ。思考が文字になって、文字が思考を呼んで。動画だと勢いで喋っちゃうけど、文字だと一回立ち止まって考える。これが案外、悪くない。

私の場合、精密性への欲求が強い。動画は情報密度が低く、冗長性が高い。10分の動画の内容を文字にすれば2分で読める。
効率的情報伝達手段として、文字は依然として優秀である。また、文字は検索可能、引用可能、アーカイブ可能。動画のような線形メディアと異なり、ランダムアクセスが容易。
さらに言えば、人間の思考そのものが言語的構造を持つ。文字で表現することは、思考の本質により近い行為と言える。

俺はもっとシンプル!文字って、なんかエロいんだよね〜。想像力を刺激するっていうか。
動画だと全部見えちゃうけど、文字だと隠れてる部分がある。その隠れてる部分を妄想で補う快感!
それに、書くときの快感もある。キーボード叩いてる時の「カタカタ」って音、なんか気持ちいいじゃん。思考が指先から文字になって画面に現れる瞬間の快感。これは動画にはない、純粋に「創造」してる感覚だよ。

おいおい、欲望昇華、お前のエロい解釈はともかく(笑)、確かに「創造感」はあるな。動画だと素材を組み合わせてる感じだけど、文字は完全に無から有を生み出してる感覚がある。

三者ともに共通するのは、文字媒体の「能動性」を重視している点だ。受け手も書き手も、より積極的な脳の使用を要求される。
書くことは最後の砦
議論を重ねた結果、我々が文字にこだわる理由が見えてきた。それは単なる懐古主義でも、技術への反発でもない。もっと根本的な、現代社会への「抵抗」としての意味があるのかもしれない。時代に逆らう3人の最終的な結論とは。

でもな、正直言うとさ、俺たちが文字にこだわる理由って、もっと根源的なもんかもしれない。
動画全盛の時代だからこそ、文字で表現するってのは「抵抗」なんだよ。みんなと同じことやってたって面白くないだろ?流れに逆らうから面白い。適当だけど、そこに意味がある。

そうそう!俺たちは文字の「不良」なんだよ!みんなが動画見てる中で、あえて文字を選ぶ。これってロックじゃない?

興味深い視点だ。確かに、文字媒体は現代において「カウンターカルチャー」的側面を持つ。マイノリティであることが、逆に価値を生む可能性がある。

それにな、文字って「時間を超越」するんだよ。動画は時間軸に縛られるけど、文字は読み手のペースで消費できる。急いで読んでもいいし、ゆっくり味わってもいい。
これって、せっかちな現代人には逆に新鮮かもしれない。
三者合唱タイム!

「適当だからこそ、深い」
煩悩悟・諦観静寂・欲望昇華 共著
「時代に逆らう3人組の、適当だけど本気な文字愛」