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第3話 両親から受け継いだ相田みつをの人間観

少女の笑顔 1.生い立ちと人生
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「にんげんだもの」と優しく語りかける相田みつをの言葉。その温かさの源泉は、どこにあったのだろうか。答えは、彼の両親が日々の暮らしの中で見せた生き方にある。貧しくとも誠実に生きた父。限られた中で家族を支え続けた母。言葉で教えるのではなく、背中で示す。説教するのではなく、ただ黙々と生きる。相田みつをは、そんな両親の姿を見て育った。彼らから受け継いだのは、財産でも地位でもない。人として生きるとはどういうことかという、最も大切な教えだった。その教えが、後に数々の名言となって、多くの人々の心を照らすことになる。


父から学んだ「誠実に働く」ことの尊さ

相田みつをの父は、決して恵まれた境遇ではなかった。学歴も、特別な技能もなく、日々の糧を得るために朝早くから夜遅くまで働き続けた。華やかさとは無縁の、地味で厳しい労働の日々。しかし父は、決して手を抜かなかった。どんなに疲れていても、任された仕事は最後まできちんとやり遂げる。文句を言わず、愚痴をこぼさず、ただ黙々と働く。その姿を、少年・相田みつをは毎日見ていた。

「働くとは、傍(はた)を楽にすること」——後に相田がこう語るようになったのは、父の背中から学んだからである。父の労働は、家族のためだった。妻や子どもたちが少しでも楽に暮らせるように。少しでも笑顔でいられるように。自分のことは後回しにして、家族のために汗を流す。その姿に、相田は「働く」ことの本質を見た。それは単なる金銭獲得の手段ではなく、誰かを支え、誰かを幸せにする行為なのだと。

また、父は決して見栄を張らなかった。貧しいことを恥じることもなく、かといって卑屈になることもなく、自分のできる範囲で精一杯生きる。この**「等身大に生きる」姿勢**が、相田の「そのままでいい」という思想の原点となった。背伸びする必要はない。他人と比べる必要もない。自分にできることを、自分なりに、誠実にやればいい。父の生き方が、この真理を無言で教えていた。

さらに、父は失敗しても諦めなかった。仕事がうまくいかないこともあった。収入が途絶えることもあった。それでも、父は腐らずに次の仕事を探し、また一から始めた。「つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの」という相田の言葉は、何度も転んでは立ち上がる父の姿そのものである。完璧でなくていい。失敗してもいい。大切なのは、また歩き始めること。父の人生が、この教訓を体現していた。


母から受け取った「工夫と感謝」の心

相田みつをの母は、限られた資源で家族を支える名人だった。わずかな食材で、栄養のある食事を作る。古くなった衣服を、縫い直して子どもたちに着せる。壊れた道具を、修理して使い続ける。お金では解決できない貧しさの中で、母は毎日「工夫」し続けた。その姿を見て育った相田は、**「ないものを嘆くのではなく、あるもので何ができるかを考える」**という創造的な思考を身につけた。

母の料理には、愛情が込められていた。高級な食材は使えない。しかし、家族の健康を思い、喜ぶ顔を思い浮かべながら、一品一品を丁寧に作る。「おいしい」と言われたときの母の笑顔を、相田は忘れなかった。この経験が、後に「心を込める」ことの大切さを説く彼の言葉につながっている。技術や材料ではなく、込められた気持ちこそが、ものの価値を決める。母の料理が、この真理を教えた。

また、母は常に感謝の言葉を口にした。近所の人がおすそ分けをくれたとき。夫が給料を持ち帰ったとき。子どもたちが元気に育っているとき。どんな小さなことにも「ありがとう」「おかげさま」と言う母の姿が、相田の心に深く刻まれた。「生きているということ それだけで ありがたい」という彼の言葉は、母から受け継いだ感謝の心そのものである。当たり前のことなど何もない。全てが誰かの支え、何かの恵みによって成り立っている。この真理を、母は日々の暮らしの中で示していた。

母はまた、愚痴を言わなかった。夫の給料が少なくても、生活が苦しくても、文句を言わずに工夫して乗り越える。この母の姿勢が、相田に「不満を言うより、できることをする」という実践的な生き方を教えた。「あんなにしてやったのに」と恨むのではなく、「できることをしよう」と前を向く。母の背中が、この前向きな姿勢を育んだのである。


両親の「黙して語らず」という教育

相田みつをの両親は、多くを語らなかった。説教することもなく、理屈を並べることもなく、ただ自分たちの生き方を見せるだけだった。しかしこの**「黙して語らず」という教育**こそが、最も深く相田の心に届いた。言葉ではなく、行動で示す。理想を語るのではなく、日々を誠実に生きる。この姿勢が、相田に「生き方そのものが教え」であることを伝えた。

子どもは親の言葉ではなく、親の生き方を見て育つ。相田の両親は、このことを本能的に理解していた。だから彼らは、立派なことを言おうとはしなかった。ただ、自分たちができることを、精一杯やっただけだ。その結果、相田は「説教臭くない、心に響く言葉」を紡ぐ人間になった。彼の作品に上から目線がないのは、両親が上から教え込むことをしなかったからである。

また、両親は子どもの失敗を責めなかった。貧しい家庭では、子どもの失敗は家計に響く。それでも、両親は「失敗しても大丈夫」という空気を作っていた。この**「失敗を許す雰囲気」**が、相田に「つまづいてもいい」という寛容さを育てた。完璧を求めず、失敗を受け入れる。この姿勢は、両親から受け継いだ最大の贈り物の一つである。

両親はまた、比較をしなかった。「よその子は」「あの家は」といった言葉を、ほとんど口にしなかった。それぞれの家庭に、それぞれの事情がある。人と比べても仕方がない。この姿勢が、相田に**「比較しない生き方」**を教えた。後に彼が「あなたはあなたでいい」と語るようになったのは、両親がそのように育ててくれたからである。


夫婦の「支え合い」が示した関係性の本質

相田みつをが見てきた両親の関係は、華やかなロマンスではなかった。しかし、深い信頼と支え合いがあった。父が疲れて帰ってきたとき、母は黙って温かい食事を用意する。母が体調を崩したとき、不器用ながらも父が家事を手伝う。言葉で愛を語ることは少なかったが、行動で示す思いやりがあった。

この両親の姿が、相田に「夫婦とは何か」「人間関係とは何か」を教えた。派手な言葉や行動ではなく、日々の小さな気遣いの積み重ねが、関係を支える。相田が後に妻への感謝を生涯忘れなかったのは、両親の関係から学んだからである。「ありがとう」という当たり前の言葉を、当たり前に言い続ける。この姿勢が、関係を豊かにする。

また、両親は喧嘩をしても、必ず仲直りした。貧しさや疲れから、言い合いになることもあった。しかし、いつまでも引きずることはなかった。相田は、この**「許し合う力」**を見て育った。完璧な関係などない。ぶつかることもある。でも、また歩み寄ればいい。「にんげんだもの」という言葉には、この関係性への深い理解が込められている。

両親の関係には、「うばい合えば足らぬ わけ合えばあまる」の精神が息づいていた。限られた資源を奪い合うのではなく、分け合う。相手を責めるのではなく、支え合う。この姿勢が、家族全体を暖かく包んでいた。相田の「わけ合い」の哲学は、両親の夫婦関係そのものを言葉にしたものである。


生き方そのものが遺した「無言の教科書」

相田みつをは後年、「両親から特別なことを教わった記憶はない」と語っている。しかし同時に、「両親の生き方が全てを教えてくれた」とも言っている。これは矛盾ではない。両親は、言葉で教えなかった。ただ、生きる姿を見せただけだった。しかしその生き方こそが、最高の教科書だったのである。

誠実に働くこと。工夫すること。感謝すること。失敗を恐れないこと。比較しないこと。支え合うこと。これらの全ては、両親の日常の中にあった。相田はそれを、言葉として学んだのではなく、感覚として、身体として吸収した。だからこそ、彼の言葉には「実感」がある。頭で考えた理論ではなく、生きられた真実が込められている。

両親から受け継いだものは、お金でも地位でもなかった。立派な家や土地でもなかった。しかし、それ以上に価値のあるものだった——人として生きる姿勢である。この姿勢があったからこそ、相田みつをは貧しさの中でも卑屈にならず、困難の中でも希望を失わず、そして多くの人に寄り添える言葉を生み出すことができた。

「おかげさま」「ありがとう」「そのままでいい」——相田みつをの代表的な言葉の全ては、両親から受け継いだ遺産である。両親は有名人でもなく、特別な業績を残したわけでもない。しかし、その誠実な生き方が、一人の詩人を育て、そしてその詩人の言葉が、時代を超えて無数の人々の心を支えている。両親の生き方という種が、相田みつをという花を咲かせ、その花が今も、多くの人に希望という香りを届け続けているのである。

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