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第4話 兄弟の絆が育てた相田みつおの命の哲学

少年の笑顔 1.生い立ちと人生
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「いのちのバトンタッチ」「生きているということ」——相田みつをの作品には、命への深い畏敬が流れている。その源泉の一つが、彼が経験した兄弟との別れだった。6人兄弟の三男として生まれた相田は、特に次兄・幸夫を慕い、兄弟たちと共に貧しくも温かい日々を過ごした。しかし、戦争という時代の悲劇が、その絆を引き裂く。長兄と次兄が戦死。10代後半という多感な時期に、最愛の兄たちを失った痛み。その喪失が、相田みつをに「生きること」の意味を問わせ続けた。兄弟の絆が育て、そして別れが深めた命への洞察。それが、後の作品に息づく「いのちの重さ」となって結実していく。


貧しさの中で育まれた兄弟の絆

相田みつをは、6人兄弟の三男として生まれた。長男、次男、三男(みつを)、そして下の弟妹たち。貧しい家庭で、一つの屋根の下、肩を寄せ合って暮らす日々。個室などあるはずもなく、子どもたちは一つの部屋で雑魚寝をした。狭く、不便で、プライバシーなどない生活。しかしそこには、現代では失われた密度の濃い人間関係があった。

兄弟たちは、互いの存在が当たり前にそばにあった。喧嘩もすれば、助け合いもする。食べ物を分け合い、服を譲り合い、寒い夜は体を寄せて暖を取る。貧しさゆえに、家族が固く結びついていた。物質的には何もなかったが、人としての温もりは確かにそこにあった。この経験が、後に相田が「うばい合えば足らぬ わけ合えばあまる」と書く原体験となった。

特に年の近い兄たちとの関係は、相田の心に深く刻まれた。子ども時代、兄たちは相田にとって憧れであり、目標であり、そして何よりも頼れる存在だった。貧しい家庭では、子どもも早くから働き手にならなければならない。兄たちが働いて家計を助ける姿を、相田は尊敬の眼差しで見ていた。兄たちの背中が、相田に「家族のために生きる」という価値観を教えたのである。


次兄・幸夫との思い出と紙芝居のエピソード

相田みつをが特に慕っていたのが、次兄の幸夫だった。年齢も近く、気の合う兄弟だったのだろう。幸夫は、まだ幼い弟のみつををよく可愛がった。その象徴的なエピソードが、紙芝居の思い出である。

相田がまだ3、4歳の頃、小学生だった幸夫が、よく弟を紙芝居に連れて行ってくれた。当時、紙芝居は子どもたちの大きな楽しみだった。しかし、相田家は貧しく、紙芝居を見るための飴を買うお金がなかった。飴を買った子どもたちは前で見られるが、買わない子は遠くからしか見られない。幸夫と幼いみつをは、いつも遠くから、タダで紙芝居を見ていた

ある日、紙芝居屋に二人の存在が気づかれた。飴も買わずに毎回見に来る兄弟。紙芝居屋は怒り、幸夫の襟首を掴んで引きずった。この光景を、幼い相田みつをは目に焼き付けた。兄が自分のために恥をかき、叱られている。その姿が、どれほど少年の心を痛めたことか。

このエピソードは、相田に深い影響を与えた。貧しさがもたらす惨めさ。しかし同時に、そんな中でも弟を楽しませようとした兄の優しさ。この二つの感情が、相田の心に複雑に絡み合った。後に彼が「貧しさ」と「人の優しさ」を深く理解できたのは、こうした経験があったからである。幸夫の優しさが、相田に「人を思いやる心」の尊さを教えたのだ。


戦争が奪った兄たちの命

やがて時代は、日本を戦争へと引きずり込んでいく。相田みつをが10代後半を迎えた頃、太平洋戦争が激化していた。若い男性たちが次々と戦場に送られる。相田の兄たち——長男も、そして慕っていた次兄・幸夫も——戦地へ赴いた。

家族は祈るような思いで、兄たちの無事を願った。しかし、祈りは届かなかった。長男が戦死。そして、次兄・幸夫も戦死の報せが届く。紙芝居に連れて行ってくれた優しい兄。いつも弟を気にかけてくれた兄。その兄が、もう二度と帰ってこない。10代後半という多感な時期に、相田みつをは最愛の兄たち二人を失ったのである。

この喪失の痛みは、計り知れない。家族全員が悲嘆に暮れた。母は泣き崩れ、父は黙って耐え、残された子どもたちは言葉を失った。相田自身も、深い喪失感と虚無感に襲われたに違いない。なぜ兄たちが死ななければならなかったのか。なぜ自分は生き残ったのか。この問いは、生涯、相田の心の奥底にあり続けた。

兄たちの死は、相田に「いのち」の儚さと尊さを刻み込んだ。昨日まで確かにそこにいた人が、今日はもういない。当たり前のように一緒にいた家族が、突然失われる。命はこれほどまでに脆く、そしてかけがえのないものなのか。この実感が、後の相田の作品の根底に流れる「いのちへの畏敬」となった。「生きているということ いま生きているということ」という彼の言葉は、兄たちの死という経験から生まれたものである。


生き残った者の罪悪感と責任

兄たちを失った相田は、複雑な感情に苛まれた。悲しみ、怒り、そして生き残ったことへの罪悪感。なぜ優秀だった兄たちが死に、自分が生き残ったのか。この「サバイバーズ・ギルト(生存者罪悪感)」は、多くの戦争体験者が抱えた重荷だった。相田もその例外ではなかった。

特に、次兄・幸夫への思いは深かった。あの優しい兄が、異国の地で命を落とした。その無念さ、悔しさ。そして、自分だけが生き延びている申し訳なさ。この感情が、相田を苦しめた。しかし同時に、この罪悪感が、相田に**「兄たちの分まで生きなければ」という使命感**を与えた。

生き残った者の責任——それは、亡くなった者たちの思いを受け継ぎ、精一杯生きること。無駄に命を使わず、意味のある人生を送ること。相田は、兄たちの死を無駄にしないために、自分の人生を懸命に生きようと決意したのではないか。この決意が、後に彼を書家・詩人としての道に駆り立てていく原動力となった。

「いのちのバトンタッチ」という相田の言葉には、この思想が込められている。命は個人で完結するものではなく、過去から未来へと受け継がれていくもの。兄たちから受け取った命のバトンを、次の世代へ渡していく。この「つながり」の中でしか、命の意味はない。兄たちの死が、相田にこの真理を教えたのである。


兄弟の絆が育んだ「おかげさま」の精神

兄たちを失った経験は、相田に深い感謝の心を育てた。生きているのは、自分一人の力ではない。多くの人の支え、犠牲、そして何より、先に逝った者たちの存在があるからこそ、今の自分がある。この「おかげさま」の精神は、相田の作品全体を貫く思想となった。

兄たちがいたからこそ、自分は守られた。兄たちが働いてくれたからこそ、自分は学べた。兄たちが道を示してくれたからこそ、自分は歩ける。そして、兄たちが命を落としたからこそ、自分は命の重みを知った。全ては「おかげさま」なのだ。相田の口癖だった「ありがとう」「おかげさま」という言葉は、兄たちへの感謝でもあった。

また、残された兄弟姉妹との絆も、相田を支えた。戦争で兄を失った悲しみを、共に分かち合った。互いに励まし合い、支え合って生きていく。この経験が、相田に**「人は一人では生きられない」**という確信を与えた。「うばい合えば足らぬ わけ合えばあまる」という言葉は、兄弟姉妹と共に生きた経験から生まれた智慧である。

6人兄弟という大家族で育ったことも、相田の人間理解を豊かにした。年上の兄姉からは学び、年下の弟妹には教える。この相互関係の中で、相田は人との関わり方を学んだ。誰もが完璧ではなく、それぞれに長所と短所がある。しかし、それらを補い合えば、家族は成り立つ。この「補い合い」の精神が、後に彼の作品に表れる「不完全さの肯定」につながっていく。


命の重さを伝え続ける使命

兄たちの死という経験は、相田みつをに「命の重さを伝える」という使命を与えた。戦争で多くの若者が命を落とした。その中には、相田の兄たちのように、優しく、真面目で、愛すべき人々がたくさんいた。彼らの死を無駄にしないために、生き残った者は語り継がなければならない。命がどれほど尊く、かけがえのないものかを。

相田の作品が、単なる自己啓発や慰めに留まらず、深い人間理解と命への畏敬を持つのは、この経験があるからである。「生きているということ いま生きているということ それはのどがかわくということ 木もれ陽がまぶしいということ」——この言葉には、日常の些細な感覚の中に命の奇跡を見出す視点がある。これは、命を失った者たちを知る者だけが持てる視点である。

また、「つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの」という言葉にも、兄たちの死の影がある。人は完璧ではない。失敗もするし、弱さも持っている。しかし、それでも生きている。生きているだけで素晴らしい。完璧である必要はない。この肯定は、命そのものへの肯定である。兄たちが生きられなかった人生を、自分は生きている。ならば、完璧でなくとも、その命を大切にしなければ。

相田の作品を読むとき、私たちは時に「癒やされる」と感じる。しかしその癒やしの背後には、深い悲しみと喪失がある。兄たちを失った痛み。生き残った罪悪感。そして、それを乗り越えて生きようとする意志。この全てが、相田の言葉に込められているのである。


今も続く兄弟の絆

相田みつをの長男・一人氏は、父について語るとき、必ず兄たちの戦死に触れる。それほどまでに、この経験は相田の人生と作品に影響を与えた。息子の目から見ても、父にとって兄たちの存在は大きかったのだろう。

相田は生涯、兄たちのことを忘れなかった。折に触れて思い出し、語り、そして作品に込めた。「いのちの根」という作品には、見えないところで支えてくれる存在への感謝が表現されている。それは、土の中の根であり、同時に、亡くなった兄たちでもあった。見えないが、確かにそこにある支え。相田の命を、そして作品を支えているのは、兄たちの存在なのである。

兄弟の絆は、死によって断たれるものではない。むしろ、別れがあるからこそ、その絆の大切さが際立つ。相田みつをの作品が時代を超えて愛されるのは、そこに普遍的な「つながり」の真理が込められているからだ。人は一人では生きられない。過去とつながり、未来へつなぐ。その連鎖の中に、命の意味がある

6人兄弟の三男として生まれ、貧しさの中で兄弟の絆を育み、そして戦争で兄たちを失った相田みつを。その痛みと喪失が、彼に命の哲学を与えた。兄たちとの思い出が、彼の温かさを育てた。そして、生き残った責任が、彼を詩人・書家として歩ませた。相田みつをの言葉の奥には、常に兄たちの存在がある。その絆が、今も多くの人の心に響き続けているのである。


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