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第5話 戦争が刻んだ相田みつをの生死観

園児の笑顔 1.生い立ちと人生
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相田みつをの長男・一人氏は語る。「父は兄2人を戦争で亡くしており、本人も戦争に参加している。戦争体験抜きに相田みつをの作品は語れない」と。「生きているということ いま生きているということ」——この言葉の背後には、戦争という時代の暗い影がある。10代後半から20代前半、人生で最も多感な時期を戦時下で過ごした相田みつを。兄たちの戦死、自身の軍隊経験、そして終戦。**死が日常だった時代を生き抜いた者だけが語れる「命の重さ」**が、彼の作品には刻まれている。戦争という極限状態が、相田に何を見せ、何を奪い、そして何を残したのか。その痕跡を辿ることで、彼の言葉の深さが見えてくる。


戦時下の青春——自由を奪われた日々

1937年、相田みつをが13歳のとき、日中戦争が始まった。少年期から青年期へと移る大切な時期が、戦争の影に覆われていく。学校では軍事教練が強化され、生徒たちは「お国のため」に奉仕することを教え込まれた。自由な思考、自由な表現、自由な生き方——そうしたものは、次第に許されなくなっていった。

旧制栃木県立足利中学校在学中、相田は喫煙の濡れ衣を着せられ、軍事教練の教官に嫌われたため進学を断念した。この経験は、相田にとって理不尽さとの最初の出会いだったかもしれない。やってもいないことで罰せられ、夢を諦めざるを得ない。戦時下の抑圧された空気の中で、個人の尊厳は簡単に踏みにじられた

街には出征する兵士を見送る万歳の声が響き、配給制度が始まり、欲しがりません勝つまではという標語が掲げられた。若者たちは、自分の人生を自分で決めることができなかった。国が決めた道を歩むしかなかった。相田の青春は、こうした抑圧と統制の中にあった。後に彼が「そのままでいい」「自由に生きる」ことの大切さを説くのは、自由を奪われた時代を知っているからである。


兄たちの戦死——身近な死の衝撃

戦争は、相田家にも容赦なく襲いかかった。長兄が戦地へ。そして慕っていた次兄・幸夫も戦地へ。家族は毎日、無事を祈った。しかし祈りは届かず、二人とも戦死の報せが届く。10代後半の相田にとって、この喪失は計り知れないものだった。

昨日まで一緒にいた家族が、突然この世からいなくなる。遺骨さえ帰ってこないこともあった。白い箱に入っているのは、遺骨ではなく石ころだけということも珍しくなかった。戦争は、人間を「数」として扱う。一人ひとりの人生、思い、家族への愛——そうしたものは全て無視され、ただ「戦死者何名」という数字に変えられる。

兄たちの死を通じて、相田は「命の軽さ」を知った。戦時下では、人の命が驚くほど簡単に失われる。しかし同時に、だからこそ**「命の重さ」**も知った。失って初めて、その存在がどれほど大きかったか分かる。もう二度と会えない。もう二度と声を聞けない。この絶対的な喪失が、相田に命の儚さと尊さを刻み込んだ。「生きているということ」という言葉は、生きることが当たり前ではない時代を生きた者の実感なのである。


自身の戦争体験——死と隣り合わせの日々

相田みつを本人も戦争に参加している。詳細な記録は多く残されていないが、彼もまた軍隊を経験し、戦時下を生き延びた一人である。軍隊という組織の中で、個人は徹底的に抑圧される。自分の意志は認められず、命令に絶対服従することを求められる。

軍隊では、人間性が剥ぎ取られる。名前ではなく番号で呼ばれ、個性は否定され、「一兵卒」として扱われる。理不尽な命令、暴力的な上下関係、過酷な訓練。人間が人間として扱われない世界——それが軍隊だった。この経験が、相田に「人間の尊厳」の大切さを痛感させた。

また、戦時下では死が日常だった。今日生きている戦友が、明日には戦死する。自分もいつ死ぬか分からない。この「死と隣り合わせ」の感覚は、人の価値観を根底から変える。明日があることが当たり前ではなくなる。「今この瞬間」がどれほど貴重か、生き延びた者だけが実感として知っている。相田の「いまここ」という思想は、この戦争体験から生まれたものである。


終戦——生き残ったことの意味

1945年8月15日、終戦。相田みつをは21歳だった。戦争が終わったとき、人々の反応は複雑だった。解放感、安堵、そして同時に、虚無感。何のための戦争だったのか。あれほど多くの人が死に、あれほど苦しんだのに、結局日本は負けた。兄たちの死は何だったのか——この問いに、答えはなかった。

生き残った者たちは、複雑な感情を抱えた。喜びと同時に、罪悪感。なぜ自分は生き残ったのか。亡くなった人々に申し訳ない。この「サバイバーズ・ギルト」は、多くの戦争体験者を苦しめた。相田も例外ではなかっただろう。兄たちが死に、自分は生きている。この事実を、どう受け止めればいいのか。

しかし、相田はこの苦しみを乗り越えていく。生き残ったことには、意味がある。亡くなった人々の分まで、精一杯生きること。それが生き残った者の責任であり、使命である。この思想が、相田の人生を方向づけた。兄たちから受け継いだ命のバトンを、次の世代へ渡していく。そのために、自分は生きる。この決意が、後に彼を書家・詩人として歩ませた。


戦後の虚無と再生——生きる意味の探求

終戦後の日本は、焼け野原だった。物質的にも、精神的にも。多くの人が、生きる意味を見失っていた。価値観が崩壊し、信じていたものが嘘だったと知らされ、人々は虚無の中にいた。相田もまた、この虚無感の中にいただろう。

何のために生きるのか。戦争で多くの命が失われ、自分も死ぬかもしれなかった。しかし生き延びた。では、この命をどう使えばいいのか。この根源的な問いが、相田を苦しめた。答えは簡単には見つからなかった。しかし、この問い続ける姿勢こそが、相田を深い思索へと導いた。

1942年、歌会で生涯の師となる曹洞宗高福寺の武井哲応と出会い、在家しながら禅を学んだ。禅との出会いは、戦時中から戦後にかけて、相田の精神的支柱となった。禅は、生と死、存在の意味といった根源的な問いに向き合う思想である。戦争で死と向き合った相田にとって、禅は魂の救いとなった。

禅の教えは、相田に「今を生きる」ことの大切さを教えた。過去は変えられない。未来は分からない。しかし、今この瞬間は確かにある。この「今」を精一杯生きることこそが、生きる意味である。この悟りが、戦後の虚無から相田を救い出した。そして、この思想が後の作品の核心となっていく。


戦争体験が育んだ「平和への祈り」

戦争を経験した相田みつをは、生涯、平和を願い続けた。彼の作品には、直接的な反戦メッセージは少ない。しかし、その全ての言葉の底に、「二度と戦争を繰り返してはならない」という静かな祈りがある。

「にんげんだもの」という言葉には、人間の弱さへの理解がある。人は間違える。失敗する。しかし、だからこそ許し合い、支え合わなければならない。争いではなく、共存。奪い合いではなく、分かち合い。この思想は、戦争の悲惨さを知る者だからこそ、心から願えるものである。

「うばい合えば足らぬ わけ合えばあまる」という言葉も、戦争体験と無関係ではない。戦争は、奪い合いの極致である。領土を奪い、資源を奪い、そして命を奪う。その結果、誰も幸せにならない。全てが破壊される。相田は、この真理を身をもって知っていた。だからこそ、「わけ合う」ことの大切さを説く。戦争の対極にあるのは、分かち合いの精神なのである。

また、「生きているということ いま生きているということ」という言葉にも、平和への祈りが込められている。平和だからこそ、生きていられる。戦争がなければ、のどが渇き、木漏れ日がまぶしいと感じられる日常がある。この当たり前の日常が、どれほど貴重か。戦争を知る相田は、平和な日常の奇跡を誰よりも深く理解していた。


「いのち」への畏敬——戦争が遺したもの

戦争体験が相田みつをに遺したもの——それは、「いのち」への深い畏敬である。彼の作品の多くが、直接的あるいは間接的に、命の尊さを語っている。それは、命が簡単に失われる時代を生きたからこそ、書ける言葉である。

「いのちのバトンタッチ」という作品には、命が個人で完結するものではなく、過去から未来へとつながっていくものだという思想が表現されている。兄たちから受け取った命のバトンを、次の世代へ渡していく。この連鎖の中にこそ、命の意味がある。戦争で多くの命が途絶えた。しかし、生き残った者がその思いを受け継ぎ、次へつなぐことで、死は無駄にならない。

また、相田の作品には「生かされている」という感覚が流れている。自分の力だけで生きているのではない。多くの人の支え、自然の恵み、そして何より、先に逝った者たちの犠牲の上に、今の自分がある。この「おかげさま」の精神は、戦争体験から生まれた深い感謝である。

戦争は、相田みつをから多くのものを奪った。自由な青春、愛する兄たち、そして心の平穏。しかし同時に、戦争は相田に「生きること」の本質を教えた。命の儚さと尊さ。平和の貴重さ。人とのつながりの大切さ。これらの全てが、極限状態だからこそ見えたものである。

相田みつをの言葉が、時代を超えて多くの人の心に響くのは、そこに戦争という時代の痛みと、それを乗り越えようとする人間の強さが刻まれているからである。表面的な慰めではなく、死を見つめた者だけが語れる、命への深い洞察——それが、相田みつをの作品の核心なのである。


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