時が経ち、もう二度と食べることのできない味がある。祖母が作ってくれた料理の味は、レシピには書かれていない何かが込められていた。食卓の記憶は、愛する人との時間そのものを呼び覚ます。あの頃の食卓を、静かに思い返してみたい。
祖母の台所には、いつも何かしらの良い匂いが漂っていた。煮物の出汁の香り、焼き魚の匂い、炊きたてのご飯の湯気。その匂いを嗅ぐだけで、子どもの頃の自分に戻れるような気がする。料理の香りは、時を超えて記憶を運んでくる。祖母の家を訪れると、まず台所に顔を出す習慣があった。何を作っているのか覗き込むと、祖母は決まって「もうすぐできるから待っててね」と優しく笑った。
祖母の料理は、決して華やかなものではなかった。むしろ地味で、素朴で、昔ながらの家庭料理だった。しかし、その一品一品に丁寧さと愛情が詰まっていた。野菜は時間をかけて下ごしらえされ、出汁は朝から取られていた。煮物は弱火でじっくりと味を染み込ませ、漬物は季節ごとに漬けられていた。手間を惜しまない姿勢が、料理の味に表れていた。
特に思い出深いのは、祖母の作る煮物だ。大根、人参、こんにゃく、厚揚げ。シンプルな具材なのに、なぜあんなに美味しかったのだろう。何度か自分で作ってみたが、同じ味にはならない。レシピを聞いても、「適当に」「目分量で」という答えしか返ってこなかった。祖母の料理には、数値化できない感覚が宿っていた。長年の経験から生まれる勘、素材を見極める目、火加減を感じる手。それらは、簡単に真似できるものではない。
食卓には、いつも季節の味があった。春には筍ご飯、夏には冷やしそうめんと茄子の煮びたし、秋には栗ご飯、冬には大根の煮物。旬のものを旬の時期に食べるという当たり前のことが、祖母の食卓では自然に行われていた。スーパーに行けば一年中同じ野菜が並ぶ現代とは違い、季節ごとに食べられるものが変わることが、食事を特別なものにしていた。
祖母の料理で忘れられないのは、その「もったいない」精神だ。大根の皮はきんぴらに、魚のあらは出汁に、野菜の切れ端は味噌汁に。何一つ無駄にしない姿勢は、物を大切にする心そのものだった。食材への感謝と敬意が、料理の根底にあった。食べ物を粗末にすることは、祖母にとって許されないことだった。その教えは、今でも心に残っている。
食事の時間は、家族が集まる大切な時間だった。祖母は自分が食べるよりも、家族が食べる姿を見ることに喜びを感じているようだった。「もっと食べなさい」「おかわりはある?」と声をかけながら、満足そうに微笑む姿が目に浮かぶ。料理を作ることは、愛情を表現する手段だった。言葉で伝えきれない思いを、日々の食事に込めていたのだろう。
年を重ねるごとに、祖母の料理の味が恋しくなる。特に疲れた時、悲しい時、ふと食べたくなる。あの味があれば、少し元気になれる気がする。しかし、もう二度と食べることはできない。だからこそ、記憶の中の味は、どんな高級料理よりも尊い。味覚だけでなく、その時の温かさ、祖母の笑顔、家族の会話、すべてが一緒に蘇ってくる。
今、自分が料理を作る時、祖母の姿を思い出すことがある。丁寧に野菜を洗い、時間をかけて煮込む。その行為の中に、祖母から受け継いだものがある。完璧に同じ味は作れなくても、その心を受け継ぐことはできる。食べる人のことを思いながら作る、その気持ちが一番大切な調味料なのかもしれない。
祖母の料理は、単なる栄養補給ではなく、心を満たす行為だった。お腹だけでなく、心まで温かくなる。それが家庭料理の本質なのだろう。誰かのために作る、誰かと一緒に食べる。そんな当たり前のことの中に、人と人とのつながりがある。祖母の食卓が教えてくれたのは、料理の作り方だけでなく、生きる上で大切なことだったのかもしれない。
あなたには、忘れられない家族の味がありますか?それはどんな料理で、どんな思い出と結びついていますか?

