人生の最期に、あなたは何を信じて死んでいけますか。財産でも名声でもなく、体力も記憶も失った果てに、それでもなお残るものは何でしょうか。
作家・遠藤周作が、自らの老いと病と向き合いながら綴った『人生の踏絵』は、人間の弱さと信仰の本質を見つめた深い作品です。キリスト教作家として知られる遠藤ですが、この本で語られるのは、特定の宗教を超えた、普遍的な「生と死」のテーマです。
タイトルの「踏絵」とは、江戸時代にキリシタンを見分けるために使われた試練のこと。しかし遠藤が問うのは、**私たち一人ひとりが老いの中で直面する「人生の踏絵」**です。老いという避けられない試練の中で、私たちは何を守り、何を手放すのか。その選択こそが、人生の本質を映し出すのだと。
書籍の基本情報
- 書籍名: 人生の踏絵
- 著者: 遠藤周作(えんどう・しゅうさく)
- 出版社: 朝日新聞社(朝日文庫版は1993年)
- 初版発行年: 1988年
- ページ数: 約230ページ
- ジャンル: 社会老齢学、エッセイ、死生観
著者の遠藤周作(1923-1996)は、日本を代表する作家の一人。『沈黙』『海と毒薬』などの作品で知られ、キリスト教と日本人の精神性を探求し続けました。本書は、遠藤が60代半ばで重い病を患った後、老いと死を見つめながら書いたエッセイ集です。
老いがもたらす人間の本質の露呈
遠藤周作が本書で率直に語るのが、**「老いは人間の本質を露わにする」**という厳しい現実です。若い頃や壮年期には、社会的な仮面や体面で、本当の自分を隠すことができます。しかし老いは、そうした装飾をすべて剥ぎ取っていきます。
遠藤自身、重病を患い、手術を受け、老いを実感する中で、自分の弱さや醜さと向き合うことになりました。病院のベッドで、トイレにも一人で行けない自分。看護師に世話をされる惨めさ。こうした経験を通して、人間の尊厳とは何かという根源的な問いが浮かび上がってきたのです。
特に印象的なのが、老いによって「わがまま」になる自分への気づきです。体が思うように動かない苛立ち、周囲への依存、些細なことへの執着。遠藤は、自分の中に湧き上がる醜い感情を、正直に、ユーモアを交えながら描きます。その率直さが、読者に深い共感を呼びます。「自分だけではないのだ」と。
しかし遠藤は、この醜さを否定しません。むしろ、人間とは本来そういう弱い存在なのだと受け入れます。完璧な人間など存在しない。誰もが弱く、醜く、情けない部分を持っている。その事実を認めることから、本当の意味での人間理解が始まるのだと。
この視点は、現代の「ポジティブ思考」一辺倒の風潮に対する、重要な問いかけです。弱さを隠し、強さを演じることに疲れている人は多いはず。遠藤の言葉は、「弱くていい」「醜くていい」という許しを与えてくれるのです。
信仰とは弱さを受け入れること
本書の中心テーマの一つが、**「信仰の本質」**についての考察です。遠藤はキリスト教作家ですが、ここで語られる信仰は、教義や儀式ではありません。むしろ、人間の弱さを受け入れる力としての信仰なのです。
遠藤が繰り返し語るのが、「神は弱い人間に寄り添う存在である」という信念です。強い人間、立派な人間だけを愛するのが神ではない。むしろ、弱く、罪深く、情けない人間を、そのまま受け入れ、寄り添ってくれる。それが遠藤の考える神の姿です。
この考え方は、『沈黙』で描かれた「踏絵を踏んでもいい」というテーマとも通じています。形式的な信仰を守ることより、人間の命と尊厳を守ることの方が大切だと。真の信仰とは、人間を縛るものではなく、解放するものなのだと。
老いの中で、遠藤は自分の無力さを痛感します。何もできない、誰かに頼るしかない。しかし、その無力さの中にこそ、真の謙虚さと感謝が生まれると言います。すべてを自分の力でやってきたと思っていた若い頃の傲慢さ。それが老いによって打ち砕かれ、初めて他者への感謝が芽生える。
この視点は、宗教を持たない人にとっても、大きな意味があります。信仰を「神への信仰」ではなく、「人間への信頼」と読み替えることができるからです。自分一人では生きられない。誰かに支えられて生きている。その事実を受け入れ、感謝する。それが、老いを豊かに生きる秘訣なのです。
病と死が教えてくれる生の意味
遠藤周作は、本書執筆の少し前に、大きな手術を経験しました。その体験が、本書の随所に影を落としています。病と死を身近に感じた人間が、生の意味をどう捉え直すか。そのプロセスが、深い洞察とともに語られます。
病院のベッドで、遠藤は自分の人生を振り返ります。何を成し遂げてきたか、何を残せるか。しかし同時に気づくのは、そうした「業績」よりも、人とのつながり、愛した人々の記憶の方が、はるかに大切だということです。
死を前にしたとき、残るのは名声や財産ではない。愛した人の顔、共に過ごした時間、交わした言葉。そうした目に見えないもの、数値化できないものこそが、人生の本当の財産だったのだと。この気づきは、多くの読者の心に響くはずです。
また、遠藤は「死の恐怖」についても率直に語ります。信仰を持つ作家でも、死は怖い。痛みも怖い、消えてしまうことも怖い。その弱さを隠さない遠藤の姿勢が、かえって読者に勇気を与えます。死を恐れることは、人間として自然なことなのだと。
しかし同時に、死があるからこそ、生が輝くのだとも遠藤は言います。永遠に生きられるなら、今日を大切にする必要はない。死という終わりがあるからこそ、一日一日が貴重になる。老いと病が、そのことを教えてくれるのです。
介護される側の尊厳と葛藤
本書で特に印象的なのが、**「介護される側の気持ち」**を丁寧に描いている点です。多くの本は、介護する側の苦労を語ります。しかし遠藤は、介護される側、つまり老いて弱った人間の内面を、赤裸々に綴ります。
自分で何もできない惨めさ、他人に迷惑をかける申し訳なさ、それでいて助けてもらえないときの怒り。こうした複雑な感情が、ユーモアを交えながら描かれます。遠藤の正直さは、時に笑いを誘い、時に涙を誘います。
特に心に残るのが、「わがままを言う権利」についての考察です。老人がわがままになるのは、体が不自由になった代償だと遠藤は言います。動けないからこそ、せめて口だけは動かしたい。何かを決める権利を奪われているからこそ、些細なことに執着したい。そのわがままを、単に「困った老人」と片付けないでほしいと。
また、「生かされている」ことへの複雑な感情も語られます。延命治療によって生かされている患者は、感謝すべきなのか、それとも苦しみを長引かされているだけなのか。この問いには簡単な答えはありません。しかし、当事者の気持ちに寄り添うことの大切さを、遠藤は訴えます。
介護する家族にとって、この視点は非常に重要です。「なぜこんなにわがままなのか」と苛立つとき、その背景にある老人の葛藤を理解できれば、接し方も変わってくるはずです。遠藤の言葉は、介護する側とされる側の橋渡しをしてくれるのです。
人生の最期に何を残すか
本書の終盤で、遠藤が深く考察するのが、**「人生の最期に何を残すか」**というテーマです。作家として多くの作品を残してきた遠藤ですが、老いの中で問い直すのは、本当の意味での「遺産」とは何かということです。
遠藤が辿り着くのは、「作品」よりも「生き様」を残すことの大切さです。どんな立派な作品を書いても、その人がどう生き、どう死んだかの方が、実は後世に大きな影響を与える。特に、弱さをさらけ出しながらも、なお人間らしく生きる姿こそが、人々の心に残るのだと。
また、遠藤は「許し」についても語ります。人生の最期に、自分を許し、他者を許すこと。若い頃の過ち、人を傷つけた記憶、後悔の念。そうしたものを抱えたまま死んでいくのではなく、許しの中で人生を閉じることの大切さを説きます。
この「許し」は、宗教的な意味だけではありません。自分自身への許し、つまり「完璧でなくてもよかった」「精一杯生きた」と認めること。そして、他者への許し、つまり恨みや憎しみを手放すこと。この二つの許しが、穏やかな最期につながるのです。
遠藤自身、完璧な人間ではなかったことを認めています。弱く、醜く、情けない部分もあった。しかし、だからこそ人間らしかったのだと。その自己肯定が、読者にも勇気を与えてくれます。完璧でなくていい、弱くていい、それでも人生には意味があるのだと。
現代社会での応用・実践
では、『人生の踏絵』から得た学びを、どう日々の生活に活かせばいいでしょうか。
まず、自分の弱さを認めること。完璧を装うのをやめ、「できないことはできない」と素直に認める勇気を持ちましょう。特に老年期には、この姿勢が心の平安につながります。弱さを隠すことに使うエネルギーを、もっと大切なことに使えるのです。
次に、人とのつながりを大切にすること。遠藤が教えてくれるのは、最期に残るのは人間関係だということです。今から、家族や友人との関係を丁寧に育てておく。感謝を伝える、許しを求める、愛を表現する。そうした日々の積み重ねが、豊かな老後につながります。
また、介護される側の気持ちを理解すること。親や配偶者を介護している方は、相手のわがままに苛立つこともあるでしょう。しかし、その背景にある葛藤を理解できれば、接し方も変わります。遠藤の視点を持つことで、介護がより人間的なものになるはずです。
さらに、死について考え始めること。遠藤のように、死を見据えることで、生の意味が明確になります。エンディングノートを書く、家族と話し合う、自分の人生を振り返る。こうした作業が、残された時間をより充実させてくれます。
最後に、許しを実践すること。自分を許す、他者を許す。過去の後悔や恨みを手放す。これは簡単ではありませんが、少しずつ取り組むことで、心が軽くなっていきます。老いを穏やかに生きるために、許しは不可欠なのです。
どんな方に読んでもらいたいか
『人生の踏絵』は、人生の意味を問い直したいすべての世代の方に読んでいただきたい一冊です。
特に、病気や老いに直面している方には、深い慰めとなるはずです。遠藤の率直な弱さの告白は、「自分だけではない」という安心感を与えてくれます。弱さを恥じる必要はないのだと、優しく語りかけてくれる本なのです。
また、親や配偶者を介護している方にも、ぜひ読んでいただきたい内容です。介護される側の気持ちを理解することで、接し方が変わり、介護する側の心も軽くなります。お互いの人間性を尊重した関係を築くヒントが、ここにあります。
信仰を持つ方にも、持たない方にも、本書は響くはずです。遠藤の語る「信仰」は、特定の宗教に限定されません。むしろ、人間への信頼、生への感謝、弱さの受容という、普遍的な価値観として読むことができます。
若い世代にも、早すぎることはありません。老いや死は遠い未来のことではなく、今の生き方につながっています。遠藤の言葉は、「どう生きるか」という根本的な問いを、私たちに投げかけてくれるのです。
そして何より、人生に迷っている方、自分を許せない方、完璧主義に疲れている方に。遠藤の温かく、ユーモラスで、そして深い言葉が、きっと心を癒してくれるはずです。
関連書籍5冊紹介
遠藤周作の思想をさらに深く理解し、老いと死について考えるための書籍を紹介します。
1. 『深い河』(遠藤周作著、講談社文庫)
遠藤周作の後期代表作。インドのガンジス川を舞台に、様々な人物の人生と信仰が描かれます。**「弱い人間を受け入れる神」**というテーマが、小説という形で深く掘り下げられています。『人生の踏絵』と併せて読むことで、遠藤の思想の全体像が見えてきます。
2. 『わたしが・棄てた・女』(遠藤周作著、講談社文庫)
若き日の罪と、それを背負って生きる人間の姿を描いた名作。人間の弱さと罪、そして許しというテーマは、『人生の踏絵』にも通じます。遠藤文学の入門としても最適です。
3. 『老いの才覚』(曽野綾子著、ベスト新書)
同じくキリスト教作家である曽野綾子氏による老いの生き方論。遠藤が「弱さの受容」を説くのに対し、曽野氏は「品格を保つ」ことを重視します。両方の視点を持つことで、老いへの理解が深まります。
4. 『死を見つめる心』(アルフォンス・デーケン著、NHK出版)
上智大学教授だったデーケン神父による、死と悲嘆のケアについての名著。遠藤とも親交があった著者が、死とどう向き合うか、どう乗り越えるかを、カトリックの視点から優しく語ります。
5. 『こころ』(夏目漱石著、新潮文庫)
日本文学の古典ですが、「罪と許し」というテーマで、遠藤作品と深く共鳴します。若い頃に犯した過ちを背負って生きる「先生」の姿は、人間の弱さと苦悩を深く描いています。世代を超えて読み継がれる理由がわかる一冊です。
まとめ
『人生の踏絵』は、遠藤周作という一人の作家が、老いと病の中で見つめた人間の真実を綴った貴重な記録です。華やかな業績や強さではなく、弱さ、醜さ、情けなさ。そうした人間の負の部分を、遠藤は隠さず、ユーモアを交えながら描きます。
しかし、この本はネガティブではありません。むしろ、弱さの中にこそ、人間の真の美しさがあるというメッセージに満ちています。完璧な人間など存在しない。誰もが弱く、誰もが助けを必要としている。その事実を受け入れたとき、初めて人は自由になれるのだと。
老いという「人生の踏絵」は、私たち一人ひとりに問いかけます。「あなたは何を守り、何を手放すのか」と。体力も地位も財産も失ったとき、それでもなお残るものは何か。遠藤が辿り着いた答えは、人とのつながり、愛、そして許しでした。
現代社会は、強さを求め、完璧を求め、成功を求めます。しかし、遠藤の言葉は、そうした価値観とは違う道を示してくれます。弱くていい、不完全でいい、失敗してもいい。それでも人生には意味があるのだと。
もしあなたが、自分の弱さに苦しんでいるなら。もし、老いや死を恐れているなら。もし、完璧でなければならないというプレッシャーに疲れているなら。この本を手に取ってみてください。遠藤周作の温かく、ユーモラスで、そして深い言葉が、あなたの心を優しく包み込んでくれるはずです。

