「高齢になれば性欲は自然に枯れていくもの」――そんな思い込みを、私たちの多くが持っているのではないでしょうか。定年を迎え、子育てを終え、人生の晩年に入れば、性的な欲求も関心も薄れていく。そんな「常識」が、社会に深く根付いています。
しかし、高柳美知子氏の『セックス抜きに老後を語れない』は、その「常識」に真っ向から挑戦します。人間の性は、生きている限り消えることはない。むしろ、長寿社会を迎えた現代において、老後の性をどう捉え、どう向き合うかは、より豊かに生きるための重要なテーマなのだと。
この本は、タブー視されがちなテーマを、温かく、そして誠実に語ります。高齢期の性を語ることは、決して恥ずかしいことでも不謹慎なことでもありません。それは、人間らしく、生き生きと老いを生きるための、大切な視点なのです。
書籍の基本情報
- 書籍名: セックス抜きに老後を語れない
- 著者: 高柳美知子(たかやなぎ・みちこ)
- 出版社: 河出書房新社
- 発行年: 2000年
- ページ数: 約220ページ
- ジャンル: 社会老齢学、性教育、ジェンダー論
著者の高柳美知子氏は、1931年生まれの元国語教師。性教育の第一人者として、『古事記』や『源氏物語』などの文学作品から日本人の性意識を探る独自の視点で、多数の著作を発表してきました。本書は、自らの体験と長年の研究に基づき、老後の性について率直に語った画期的な一冊です。
老後の性をタブー視してきた社会
日本社会において、高齢者の性は長くタブーとされてきました。「年寄りが性を語るなんてみっともない」「高齢になったら性欲なんて恥ずかしい」。そんな価値観が、私たちの中に深く刷り込まれています。
高柳氏は、この沈黙が高齢者の生きる喜びを奪ってきたと指摘します。性は、若者だけの特権ではありません。年齢を重ねても、人を愛したい、触れ合いたい、親密さを求めたいという気持ちは、ごく自然な人間の欲求です。しかし、社会がそれを「不適切」とみなしてきたために、多くの高齢者が自分の感情を押し殺し、孤独に苦しんできたのです。
特に興味深いのは、著者が『古事記』や『源氏物語』を引用しながら、日本人の性意識の変遷を辿る部分です。古代日本では、性はもっとおおらかに受け止められていました。それが、近代化の過程で、西洋的な「羞恥心」や「抑制」の概念が導入され、性がタブー化していった。特に高齢者の性は、「見苦しいもの」として隠されるようになったのです。
しかし、人生50年の時代と、人生100年の時代では、老後の意味がまったく異なります。60歳で引退しても、まだ30年、40年の時間があるのです。その長い時間を、性を否定して生きることが、本当に豊かな人生と言えるでしょうか。高柳氏の問いかけは、私たちの価値観を根本から揺さぶります。
高齢期の性の実態と男女の違い
本書の大きな特徴は、著者自身が行った性意識調査の結果を公開していることです。高齢者の性について、実態調査はほとんど行われてきませんでした。それ自体が、このテーマがいかにタブー視されてきたかを物語っています。
調査結果から見えてきたのは、性欲は決して枯れるものではないという事実です。多くの高齢者が、身体的な衰えはあっても、親密さを求める気持ちは持ち続けています。しかし同時に、夫婦間での大きなギャップも明らかになりました。
特に深刻なのが、男性は性的関心を持ち続けているのに、女性の多くが夫との性的接触を拒否しているという現実です。これは、単純に性欲の有無の問題ではありません。長年の夫婦生活の中で積み重なった、コミュニケーションの断絶や不満が背景にあるのです。
高柳氏は、この男女の違いを、社会的・文化的背景から丁寧に解きほぐします。日本の多くの夫婦は、若い頃から性について語り合うことをしてきませんでした。「察する」文化の中で、相手の気持ちを推測し、我慢することが美徳とされてきた。その結果、本当の意味での親密さを築けないまま、高齢期を迎えてしまうのです。
「夫は私の気持ちを理解してくれない」「妻は冷たくなった」。こうした不満は、実はコミュニケーション不足から生まれていることが多いと著者は指摘します。互いの本音を語り合わないまま何十年も過ごせば、心の距離は広がるばかり。その溝が、老後の性生活にも影を落とすのです。
豊かな老後のための性との向き合い方
では、どうすれば高齢期に豊かな性を生きることができるのでしょうか。高柳氏は、いくつかの重要な視点を提示します。
まず、性をセックスだけに限定しないことです。高齢になれば、身体的な制約も出てきます。若い頃のような性行為は難しくなるかもしれません。しかし、性の本質は肉体的な行為だけではありません。手をつなぐ、抱きしめる、優しく触れる。こうしたスキンシップこそが、心の親密さを育むのです。
次に、パートナーとのコミュニケーションを大切にすること。今さら恥ずかしいと思わず、自分の気持ちを正直に伝える。相手の気持ちに耳を傾ける。特に女性は、長年我慢してきた不満を、優しく、しかしはっきりと伝えることが大切だと著者は言います。男性も、自分の欲求だけでなく、相手の気持ちを理解しようとする姿勢が必要です。
また、夫婦関係の再構築という視点も重要です。定年後、これまで仕事中心だった夫と、家庭を守ってきた妻。それぞれの役割が大きく変わる時期です。この転換期を、あらためて「男と女」として出会い直すチャンスと捉えることができれば、新しい関係性が築けるかもしれません。
さらに、著者は新しいパートナーを見つける自由についても語ります。配偶者を亡くした方、離婚した方、あるいは長年のパートナーシップが破綻している方。そうした人たちが、新しい恋愛や親密な関係を求めることは、何も恥ずかしいことではありません。年齢に関係なく、人を愛し、愛される喜びを求めることは、人間の基本的な欲求なのです。
介護現場と性の問題
本書では、介護施設や高齢者施設における性の問題にも触れています。これは、多くの人が目を背けたくなるテーマかもしれませんが、超高齢社会の日本にとって、避けて通れない現実です。
施設に入所している高齢者の中にも、性的な欲求を持つ人はいます。しかし、多くの施設では、そうした欲求は「問題行動」として扱われ、抑圧されてきました。認知症の高齢者が性的な言動をすると、「困った症状」として薬で抑えられることさえあります。
高柳氏は、これを人権の問題として捉えます。性的な欲求は、人間の尊厳に関わる基本的な部分です。それを一方的に否定し、抑圧することは、その人の人間性を否定することにつながります。もちろん、他者に迷惑をかけるような行動は問題ですが、適切な形で性的な欲求を満たす方法を考えることは、ケアの重要な一部であるはずです。
また、認知症の高齢者が配偶者以外の人に親密さを求めるケースもあります。家族は戸惑い、傷つくかもしれません。しかし著者は、認知機能が低下しても、人とのつながりを求める気持ちは残っているのだと理解することが大切だと説きます。それは、愛情や安心を求める、人間としての根源的な欲求なのです。
さらに、介護する側の意識改革も必要です。高齢者の性を「汚らわしいもの」と見るのではなく、その人らしさの一部として受け止める。そうした視点の転換が、より人間的なケアにつながるのです。
社会が変わるべき老後の性への理解
高柳氏が本書で訴えるのは、個人の意識改革だけではありません。社会全体が、高齢者の性に対する理解を変える必要があるのです。
メディアでは、高齢者の恋愛や再婚が「美談」として取り上げられることがあります。しかしその一方で、高齢者の性的な欲求については、冗談の対象にされたり、嫌悪の対象とされたりします。この二面性が、高齢者自身を混乱させ、自分の気持ちを否定させてしまうのです。
また、高齢者向けの性教育や情報提供も、ほとんど行われていません。若者向けの性教育は進んできましたが、高齢者が安全で健康的な性生活を送るための知識や、コミュニケーションの方法を学ぶ機会は、極めて限られています。
著者は、「老後の性」を語ることがタブーでなくなる社会を目指すべきだと主張します。性は、人間が生きている限り持ち続ける、自然で大切な部分です。それを隠し、恥じる必要はありません。むしろ、オープンに語り合えるようになることで、多くの人がより豊かな老後を送れるようになるのです。
この本が出版されたのは2000年ですが、20年以上経った今も、状況は大きく変わっていません。いや、むしろ超高齢社会が進む中で、このテーマの重要性は増しています。老後30年、40年をどう生きるか。その問いに、性の視点を抜きにして答えることはできないのです。
現代社会での応用・実践
では、『セックス抜きに老後を語れない』から得た学びを、どう活かせばいいでしょうか。
まず、パートナーとの対話を始めること。今さら恥ずかしいと思わず、お互いの気持ちや希望を正直に話してみましょう。「こうしてほしい」「こう感じている」と伝えることは、決して恥ずかしいことではありません。長年連れ添ったパートナーだからこそ、今からでも本音で語り合える関係を築けるはずです。
次に、スキンシップを大切にすること。性行為だけが親密さの表現ではありません。手をつなぐ、肩に手を置く、ハグをする。日常の中で、温かい触れ合いを増やしていくこと。それが、心の距離を縮め、関係性を豊かにします。
また、自分の気持ちを肯定すること。高齢になっても恋愛感情や性的な関心を持つことは、何も恥ずかしいことではありません。「もう年だから」と自分の気持ちを否定せず、人間として自然な感情だと受け入れましょう。その自己肯定が、生き生きと生きる力になります。
さらに、社会に対して声を上げること。高齢者の性について、もっとオープンに語れる社会を作るために。自分の経験を語る、本を読んで学ぶ、周囲の人と議論する。そうした小さな行動が、社会の意識を変える第一歩になります。
最後に、介護や医療の現場で働く方々には、高齢者の性的欲求を「問題」ではなく「その人らしさの一部」として理解する視点を持っていただきたいのです。それが、より人間的なケアにつながります。
どんな方に読んでもらいたいか
この本は、すべての世代の人に読んでいただきたい一冊です。
まず、40代、50代の方には、これから迎える老後を考えるきっかけとして。老後の性について今から意識しておくことで、パートナーとの関係をより良いものにしていけます。今から対話を始めることが、豊かな老後につながるのです。
60代以上の方には、自分の気持ちを肯定する勇気をもらえる本として。「こんなことを考えるのは自分だけだろうか」「年甲斐もない」と悩んでいる方に、あなたの気持ちは自然で正常なのだと伝えてくれます。
若い世代にも、ぜひ読んでいただきたい内容です。親や祖父母世代の内面を理解するきっかけになります。高齢者も一人の人間であり、愛情や親密さを求めている。その理解が、世代間のコミュニケーションを豊かにします。
また、介護や医療の現場で働く方々には必読の書です。高齢者の性的な言動に戸惑ったとき、この本の視点が助けになるはずです。
そして、夫婦関係に悩んでいるすべての方に。年齢を問わず、パートナーとの親密さをどう築くか、どう維持するか。この本が示す視点は、あらゆる世代のカップルに役立つはずです。
関連書籍5冊紹介
老後の性や、高齢期の生き方について、さらに理解を深めるための書籍を紹介します。
1. 『60歳からの豊かな性を生きる』(高柳美知子著、河出書房新社)
本書の著者による続編的な作品。より具体的に、60歳以降の性生活をどう豊かにするか、実践的なアドバイスが詰まっています。夫婦が「男と女」として出会い直す方法、新しいパートナーを見つける勇気など、前向きなメッセージが満載です。
2. 『セックスと超高齢社会 「老後の性」と向き合う』(坂爪真吾著、NHK出版新書)
社会学者による、高齢者の性を社会問題として捉えた一冊。介護現場での性の問題、認知症と性、高齢者の風俗利用など、タブー視されがちなテーマに正面から取り組んでいます。データや事例も豊富で、社会的視点から理解を深められます。
3. 『50歳からの性教育』(村瀬幸浩ほか著、河出新書)
性教育の専門家たちが、中高年向けに性の知識を提供する画期的な本。更年期の身体の変化、性感染症の予防、パートナーとのコミュニケーション法など、実践的な情報が満載。医学的にも正確で、安心して読める内容です。
4. 『老いの才覚』(曽野綾子著、ベスト新書)
作家・曽野綾子氏による、老いを肯定的に捉え直す生き方論。性について直接的に語るわけではありませんが、老いを豊かに生きる知恵が詰まっています。尊厳を持って老いるとはどういうことか、深い洞察が得られます。
5. 『夫婦の壁』(黒川伊保子著、祥伝社新書)
脳科学者による、男女の脳の違いから夫婦のすれ違いを解説した本。なぜ夫婦は会話がすれ違うのか、どうすれば理解し合えるのか。科学的根拠に基づいた実践的アドバイスが、老後の夫婦関係改善にも役立ちます。
まとめ
『セックス抜きに老後を語れない』は、日本社会が長く目を背けてきたテーマに、勇気を持って光を当てた画期的な一冊です。高柳美知子氏の誠実で温かい語り口は、読者に安心感を与えながら、深い気づきをもたらしてくれます。
この本が伝えるメッセージは、シンプルです。人間の性は、生きている限り消えることはない。そして、それは恥じるべきことでも隠すべきことでもない。むしろ、性を含めた全人格を肯定し、豊かに生きることこそが、人間としての尊厳なのだと。
超高齢社会を迎えた日本において、老後30年、40年をどう生きるかは、私たち全員にとっての課題です。その長い時間を、性を否定して生きるのか、それとも人間らしい親密さや愛情を求めながら生きるのか。この選択は、人生の質を大きく左右します。
本書は、決して過激な内容ではありません。むしろ、当たり前のことを、当たり前に語っているだけなのです。ただ、その「当たり前」が、あまりにも長く抑圧されてきたために、多くの人が驚き、戸惑い、そして共感するのでしょう。
もしあなたが、老後の生き方について考えているなら。もしあなたが、パートナーとの関係に悩んでいるなら。もしあなたが、親や祖父母の気持ちを理解したいと思っているなら。この本を手に取ってみてください。きっと、新しい視点と、生きる勇気を与えてくれるはずです。

