「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」。この一文で知られるプロイセンの軍人・軍事思想家、カール・フォン・クラウゼヴィッツ。ナポレオン戦争という激動の時代を生き、12歳で軍に入隊してから生涯を軍事研究に捧げた彼が遺した『戦争論』は、200年近く経った今も世界中の士官学校で学ばれ続けています。単なる戦術マニュアルではなく、戦争という人間の営みの本質を哲学的に考察した本書は、国際政治、危機管理、経営戦略にまで応用される普遍的な智慧の宝庫です。「摩擦」「霧」「三位一体」といった概念は、不確実性に満ちた現代社会を生きる私たちにも深い示唆を与えてくれます。戦争を語ることで平和の尊さを知る。クラウゼヴィッツの思想は、武力ではなく知恵によって安全を守ることの大切さを、静かに、しかし力強く教えてくれるのです。
著者の基本情報
カール・フィリップ・ゴットリープ・フォン・クラウゼヴィッツ(Carl Philipp Gottlieb von Clausewitz)
- 生年:1780年6月1日
- 没年:1831年11月16日(51歳、コレラにより死去)
- 出身地:プロイセン王国ブルク(現ドイツ・ザクセン=アンハルト州)
- 経歴:1792年(12歳)プロイセン軍入隊、1801年ベルリン士官学校でシャルンホルスト将軍に師事、1806年イエナの戦いで捕虜、1812年ロシア軍に参加してナポレオンと戦う、1818年ベルリン陸軍大学校校長就任
- 主な著作:『戦争論(Vom Kriege)』全8篇(未完、死後1832年に妻マリー・フォン・ブリュールが編集出版)
- 影響:世界各国の士官学校、国際政治学、経営戦略論、危機管理論
クラウゼヴィッツは、貧しい下級貴族の家に生まれました。12歳という幼さでプロイセン軍に入隊し、フランス革命戦争に従軍。21歳でベルリン士官学校に入学し、当時の名将シャルンホルスト将軍のもとで軍事学を学びます。1806年、イエナの戦いでナポレオン率いるフランス軍に大敗し、捕虜となります。この敗北の衝撃が、彼の思索の原点となりました。
戦争論の誕生 ナポレオンという衝撃
クラウゼヴィッツが生きた時代は、ナポレオン戦争という激動期でした。フランス革命によって誕生したナポレオンは、従来の戦争の常識を覆す戦い方でヨーロッパを席巻しました。それまでの戦争は、貴族が雇った傭兵同士が整然と並んで戦う、限定的なものでした。しかしナポレオンは、国民全体を動員する「国民戦争」を展開したのです。
1806年、イエナの戦いでプロイセン軍は惨敗します。伝統あるプロイセン軍が、なぜフランスの「雑軍」に負けたのか。捕虜となったクラウゼヴィッツは、この問いに取り憑かれます。釈放後、プロイセンの軍事改革に参加しますが、国王がナポレオンに屈してフランスとの同盟を選んだことに失望。クラウゼヴィッツは、祖国の品位と自由を取り戻すため、プロイセン軍を離れてロシア軍に参加し、ナポレオンと戦う決断をします。
これは国王への反逆行為でした。しかし彼は、正しい大義のためには権威にも逆らう勇気を持っていたのです。ナポレオン戦争終結後、クラウゼヴィッツはベルリン陸軍大学校の校長に就任。ここで『戦争論』の執筆に取り組みます。12年間かけて書き続けましたが、未完のまま1831年、コレラで急逝。遺稿は妻マリーの手によってまとめられ、翌年出版されました。
私自身、この生涯に深く感動します。若き日の敗北、捕虜の屈辱、祖国への愛と苦悩。そして最後まで完成を見ることなく死を迎える。しかしその未完の書が、200年後も読み継がれている。人生の意味は、生きている間の成功ではなく、後世に何を遺すかなのかもしれません。

戦争は政治の継続 軍事と政治の関係
クラウゼヴィッツの最も有名な命題が、「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」です。この一文が、『戦争論』の核心です。
それまでの軍事理論は、戦争を独立した活動として扱っていました。しかしクラウゼヴィッツは、戦争は政治目的を達成するための手段に過ぎないと喝破しました。国家は外交交渉、経済制裁、同盟形成など様々な手段を持っています。そのうちの一つが戦争です。つまり、戦争は目的ではなく手段なのです。
この視点は革命的でした。軍事は政治に従属すべきであり、政治目的から遊離した戦争は無意味だということです。「戦いが続き、最後には敵の疲弊が大きくなり、敵の軍事活動が当の政治目的と釣り合わない点に至ると、敵は政治目的を放棄せざるをえなくなる」。つまり、戦争の目的は敵の完全な破壊ではなく、相手に自国の意志を受け入れさせることなのです。
現代の国際関係を見ても、この原則は生きています。経済制裁、サイバー攻撃、情報戦。現代の「戦争」は多様化していますが、すべて政治目的達成のための手段です。ウクライナ紛争を見ても、双方とも政治的目標(領土、安全保障、影響圏)を持って戦っています。戦争を理解するには、まず政治を理解しなければならない。これがクラウゼヴィッツの教えです。
私たちの日常生活にも応用できます。会社での対立、家族間の意見の相違。それらは「戦争」の縮図です。大切なのは、「何のために戦っているのか」という目的を見失わないこと。手段が目的化すると、本来の目標を達成できなくなります。
摩擦と霧 不確実性への洞察
クラウゼヴィッツが提示したもう一つの重要な概念が、「摩擦」です。理論上は完璧な作戦計画も、現実には様々な障害に直面します。情報不足、兵站の困難、士気の低下、天候の変化、予期せぬ事態。これらすべてが「摩擦」です。
また、戦場には「霧」が立ち込めています。敵の位置、意図、戦力。確実な情報はほとんどありません。不完全な情報に基づいて、迅速に決断しなければならない。この不確実性こそが戦争の本質だとクラウゼヴィッツは言います。
だからこそ、指揮官には「天才」が必要だと彼は説きます。それは単なる知識や技術ではなく、直感や経験に基づく判断力です。霧の中で道を見出し、摩擦に負けずに前進する力。それがリーダーシップの本質です。
現代のビジネスや人生にも、この洞察は当てはまります。完璧な計画など存在しません。常に予期せぬトラブルが発生します。大切なのは、不確実性を受け入れ、柔軟に対応する力です。すべてがうまくいかないことを前提に、それでも前に進む勇気。それがクラウゼヴィッツの教える智慧です。
私も仕事で何度も「摩擦」に直面してきました。綿密に準備したプレゼンで機材トラブル。重要な会議で主要メンバーが欠席。そのたびに、クラウゼヴィッツの言葉を思い出します。「摩擦は当たり前。問題はそれにどう対処するか」と。
三位一体論 戦争を支える三つの力
クラウゼヴィッツの「三位一体論」は、戦争が三つの力の交錯によって成り立つという理論です。
第一は人民の情念。憎悪、復讐心、愛国心といった感情的な力です。第二は軍隊の勇気と才能。戦場での偶然や蓋然性に対処する実践的な力です。第三は政府の理性。政治目的を設定し、戦争を統制する理性的な力です。
この三つが調和して初めて、戦争は遂行できます。どれか一つが欠けても、あるいは突出しても、戦争は破綻します。人民の支持なき戦争は続きません。軍隊の能力なき戦争は勝てません。政治的理性なき戦争は暴走します。
この「三位一体モデル」は、戦争が単に将軍の戦略だけでなく、国民感情や偶発的要素に強く左右されることを示します。現代では、世論、メディア、選挙が戦争の遂行に直接影響します。ベトナム戦争でアメリカが敗北したのも、人民の支持を失ったからです。
この理論は、組織運営にも応用できます。企業には、従業員の情熱、現場の実行力、経営の戦略という三つの要素が必要です。どれか一つでも欠ければ、組織は機能しません。トップダウンだけでも、ボトムアップだけでもダメ。三つのバランスこそが鍵なのです。
ジョミニとの対比 二つの軍事思想
クラウゼヴィッツと同時代に活躍したのが、スイスの軍事理論家アントワーヌ=アンリ・ジョミニです。二人はしばしば対比されます。
ジョミニの『戦争術概論』は普遍的な戦争の勝利法があると論じたものです。「こうすれば勝てる」という実践的なマニュアルです。一方、クラウゼヴィッツの『戦争論』は「戦争とは何か」という哲学的な考察です。
ジョミニの研究は実践的であり、後の軍事学に多岐に渡る影響を及ぼしたと評価されています。アメリカの南北戦争では、両軍の士官がジョミニの本を手に戦ったと言われます。しかし、クラウゼヴィッツの研究は哲学的であったことからより分析的な軍事学に寄与し、政治研究にも影響を及ぼしたのです。
ジョミニは「How to Win(どう勝つか)」を説き、クラウゼヴィッツは「What is War(戦争とは何か)」を問いました。前者は即効性がありますが、時代が変われば通用しなくなります。後者は抽象的ですが、普遍的な価値を持ちます。
クラウゼヴィッツの手法は、現在の政治学・安全保障・軍事・戦争研究においても幅広くその価値を認められる理由は、この普遍性にあります。戦争の形態は時代とともに変わりますが、その本質は変わらない。だからこそ、『戦争論』は今も読まれ続けるのです。

現代社会での応用と実践 戦争論が教える生きる智慧
クラウゼヴィッツの思想は、軍事だけでなく、現代社会の様々な場面に応用できます。第一に、目的と手段の区別です。私たちは しばしば手段を目的化してしまいます。働くこと自体が目的になり、何のために働いているかを忘れる。勉強すること自体が目的になり、学んだ知識をどう活かすかを考えない。クラウゼヴィッツは問いかけます。「あなたの政治目的は何ですか?」と。
第二に、不確実性への対処です。人生には「霧」と「摩擦」がつきものです。完璧な計画など存在しません。大切なのは、予期せぬ事態に柔軟に対応する力。そして、不完全な情報のもとでも決断する勇気です。
第三に、バランス感覚です。三位一体論が教えるように、情熱だけでも、技術だけでも、理性だけでも不十分です。三つの調和こそが成功の鍵です。仕事でも、熱意と実力と戦略のバランスが必要です。
第四に、防御の強みを理解することです。防御側はいつでも攻撃側に奇襲をかけられる。戦場となる土地・地形も自由に選べる。日本のように専守防衛を基本とする国にとって、この洞察は重要です。しかし同時に、「少しも反撃しない戦争などナンセンス」との指摘も忘れてはなりません。
第五に、自助努力の重要性です。「その国の政治的、軍事的な状態が健全で、有力であれば、それだけ外国からの救援を期待しうる程度が大きくなる」。国際社会でも、個人の人生でも、まず自分が強くなければ、他者の助けは得られません。
私は、クラウゼヴィッツの思想を知ってから、物事の見方が変わりました。すべてを「戦争論」の視点で見るようになったのです。会社の戦略会議は「作戦計画」です。プロジェクトの遅延は「摩擦」です。不透明な市場環境は「霧」です。そして、最終的な目標を見失わないことが「政治の優越」です。
代表書籍5冊紹介
1. 『戦争論』(原著:Vom Kriege)
プロイセンの将軍カール・フォン・クラウゼヴィッツによる戦争と軍事戦略に関する書物。全8篇から成り、戦争の本質、理論、戦略、戦術、攻撃と防御、作戦計画などを体系的に論じます。未完の遺稿として妻マリーが編集出版。世界中の士官学校で教科書として使われる古典的名著。日本語訳は多数ありますが、清水多吉訳(中公文庫)、篠田英雄訳(岩波文庫)、加藤秀治郎訳(日経BP)などが代表的です。
2. 『全訳 戦争論』(加藤秀治郎訳、日本経済新聞出版、上下巻)
加藤秀治郎氏による平易な日本語での全訳。難解で知られる『戦争論』を、現代の読者が理解しやすい言葉で訳出。〔 〕内に訳者の解釈を補うことで、格段に意味が通りやすくなっています。ウクライナ情勢、中東、東アジアの安全保障を考える上でも示唆に富む内容。現代人が『戦争論』を読むなら、この訳が最もおすすめです。
3. 『戦争論 縮訳版』(加藤秀治郎訳、日経BP)
全訳の約4分の1に縮約したダイジェスト版。「迎撃だけに限定し、反撃しようとしない戦争はナンセンス」「その国の政治的、軍事的な状態が健全で、有力であれば、それだけ外国からの救援を期待しうる程度が大きくなる」など、現代の安全保障政策を議論する上でも気になる指摘が満載。『戦争論』の骨子を短時間で理解したい方に最適な入門書です。
4. 『クラウゼヴィッツ「戦争論」を読む』(日本クラウゼヴィッツ学会編)
日本の専門家による『戦争論』の解説書。原著の成り立ち、主要命題の解説、現代的意義などが体系的にまとめられています。『戦争論』を読む前に、あるいは読んだ後の理解を深めるための副読本として最適。クラウゼヴィッツの生涯や思想背景も詳しく紹介されており、初学者にも親切な構成です。
5. 『孫子・クラウゼヴィッツ』(比較研究書、各種出版社)
東洋の兵法書『孫子』とクラウゼヴィッツ『戦争論』を比較した研究書(複数あり)。抽象性・観念論的な概念的な理解を中心とするクラウゼヴィッツの手法と、実践的・直観的な『孫子』の違いが浮き彫りになります。東洋と西洋の戦略思想の違いを知ることで、より深い理解が得られます。両方を学ぶことで、戦略的思考の幅が広がります。
まとめ 戦争を知ることで平和を守る
カール・フォン・クラウゼヴィッツは、51年の生涯を戦争とともに生き、戦争について考え続けました。12歳で軍に入り、ナポレオン戦争を戦い、未完の『戦争論』を遺して逝った彼の人生は、まさに戦争そのものでした。
しかし皮肉なことに、彼の思想は戦争の悲惨さと愚かさをも浮き彫りにします。戦争は不確実性に満ち、予測不可能で、多大な犠牲を伴います。政治目的から遊離した戦争は無意味であり、民衆の支持なき戦争は続きません。クラウゼヴィッツは、戦争を美化したのではなく、その現実を冷徹に分析したのです。
「戦争とは他の手段をもってする政治の継続」という命題は、逆に言えば、政治的手段によって戦争を避けることができるということです。外交、対話、妥協、同盟。これらすべてが、戦争を回避する「政治の継続」なのです。
現代の日本は、戦後80年近く平和を保ってきました。しかし、ウクライナ、中東、台湾海峡。世界には紛争が絶えません。中国やロシア、北朝鮮などの脅威が間近に存在する日本にとって、安全保障は喫緊の課題です。
クラウゼヴィッツが教えてくれるのは、平和は祈るだけでは得られないということです。防衛力の整備、同盟関係の強化、外交努力の継続。これらすべてが、平和を守るための「政治の継続」です。そして何より、国民一人ひとりが国際情勢を理解し、安全保障について考えることが大切です。
『戦争論』は、戦争マニュアルではありません。それは、人間の本質、社会の仕組み、歴史の教訓を深く考察した哲学書です。不確実性に満ちた世界で、どう判断し、どう行動するか。その智慧は、軍事だけでなく、ビジネスにも、人生にも応用できます。
200年前、プロイセンの軍人が書き遺した未完の書が、今も世界中で読まれている。それは、人間が直面する根本的な問題が、時代を超えて変わらないからです。クラウゼヴィッツの言葉は、私たちに問いかけ続けています。「あなたの政治目的は何ですか? その目的を達成するために、最適な手段は何ですか?」と。
戦争を知ることは、平和を守ることです。歴史に学ぶことは、未来を創ることです。クラウゼヴィッツの『戦争論』は、そのための永遠の教科書なのです。


