「生きているということ いま生きているということ それはのどがかわくということ 木もれ陽がまぶしいということ」——相田みつをのこの詩は、当たり前の日常の中に、命の奇跡を見出す。のどが渇く。木漏れ日がまぶしい。こんな些細な感覚こそが、生きている証なのだ。戦争で兄たちを失い、自身も死と隣り合わせの日々を生きた相田だからこそ、「生きていること」の尊さを深く理解していた。現代人は「生きること」を当たり前だと思いがちだ。しかし本当は、今この瞬間に呼吸していること、心臓が動いていること、感覚があること——全てが奇跡である。禅の「いまここ」の思想、仏教の「いのち」への畏敬が、平易な言葉で表現されたこの作品。なぜこの詩は、多くの人の心を打つのか。その深層を探る。
日常の「当たり前」の中にある奇跡
「のどがかわく」「木もれ陽がまぶしい」——これらは、あまりにも日常的な感覚である。私たちは毎日、のどが渇き、水を飲む。太陽の光を浴び、まぶしいと感じる。しかし、これらを「奇跡」だと感じることは少ない。当たり前すぎて、その価値に気づかない。
相田みつをは、この当たり前の中に「生きていること」の奇跡を見出す。のどが渇くということは、身体が機能しているということだ。体温調節が働き、水分が必要だと知らせてくれる。これは、無数の細胞が協働している証である。木漏れ日がまぶしいということは、目が見えるということだ。光を感じ、脳が処理し、「まぶしい」と認識する。この一連のプロセスは、驚くべき精密さで機能している。
現代の科学は、生命の複雑さを解明してきた。一つの細胞の中に、宇宙のような複雑なシステムがある。DNAには膨大な情報が書き込まれ、タンパク質は正確に合成され、エネルギーは効率的に生産される。この奇跡的なシステムが、今この瞬間も、私たちの身体で動き続けている。のどが渇くという単純な感覚の背後に、計り知れない複雑さがある。
しかし相田は、科学的な説明を用いない。ただ、「のどがかわく」「木もれ陽がまぶしい」と書く。この素朴な表現が、かえって本質を捉えている。生命の奇跡は、理論ではなく、感覚として体験されるべきものだ。頭で理解するのではなく、身体で感じる。これが、相田の伝えたかったことではないか。
「いま」という瞬間の尊さ——禅の「今ここ」
相田の詩は「生きているということ」で始まるが、すぐに「いま生きているということ」と続く。この「いま」という言葉が、極めて重要である。過去でもなく、未来でもなく、今この瞬間に生きているということ。
禅の根本思想に「今ここ」がある。禅では、過去は既に過ぎ去り、未来はまだ来ていない。確かに存在するのは、今この瞬間だけである。だから、今を生きることに全てを注ぐ。過去を悔やまず、未来を憂えず、ただ今に集中する。これが「只管打坐(しかんたざ)——ただひたすら座る」の精神である。
現代人は、今を生きていない。過去の後悔に囚われ、未来の不安に怯え、今この瞬間を疎かにする。スマホを見ながら食事し、考え事をしながら歩く。身体は今ここにあるが、心は別の時間、別の場所にある。これでは、本当に生きているとは言えない。
相田は「いま生きているということ」と強調する。今、この瞬間に、のどが渇いている。今、この瞬間に、木漏れ日がまぶしい。この感覚に気づくこと。これが、今を生きるということだ。過去でも未来でもなく、今ここにある感覚に意識を向ける。これがマインドフルネスであり、禅の実践である。
また、「いま」という言葉には、もう一つの意味がある。それは、命の儚さである。今生きているが、次の瞬間にはどうなるか分からない。相田は戦争で兄たちを失った。昨日まで共に暮らしていた家族が、今日はもういない。この経験が、相田に「今」の尊さを刻み込んだ。今生きていることは、決して当たり前ではない。だから、今この瞬間を大切にする。
戦争体験が刻んだ「生きていること」への感謝
相田みつをが「生きているということ」を深く実感できたのは、彼が「生きられなかった人々」を知っているからである。兄たちの戦死、戦争での死と隣り合わせの日々——この経験が、相田に命の重さを教えた。
戦時中、死は日常だった。今日生きている戦友が、明日には戦死する。自分もいつ死ぬか分からない。このような状況では、「生きていること」が奇跡として感じられる。今日も生き延びた。今日ものどが渇く。今日も太陽を見られる。これらの全てが、感謝の対象となる。
兄たちはもう、のどが渇くことも、木漏れ日を見ることもできない。彼らが経験できなかった「生きている」という状態を、自分は経験している。この事実が、相田に深い感謝と、同時に責任感を与えた。生き残った者の責任——それは、精一杯生きることである。
現代の平和な日本では、多くの人が「生きていること」を当たり前だと思っている。しかし世界を見れば、戦争、飢餓、病気で命を失う人が今もいる。また、日本国内でも、病気や事故で突然命を失う人がいる。生きていることは、決して保証されていない。今この瞬間も、奇跡の連続なのだ。
相田の詩は、この事実を思い出させてくれる。のどが渇く。この単純な感覚を、感謝の対象として捉え直す。木漏れ日がまぶしい。この当たり前の体験を、奇跡として受け止める。こうした視点の転換が、生きる喜びを取り戻す鍵となる。
「感じること」の豊かさ——五感が教える生命
相田の詩に登場する「のどがかわく」「木もれ陽がまぶしい」は、身体感覚である。味覚、視覚、聴覚、触覚、嗅覚——五感を通じて、私たちは世界を体験する。そして、感じることができるということが、生きている証である。
現代社会は、頭で考えることを重視し、身体で感じることを軽視しがちだ。情報は頭で処理し、感情は抑制し、身体は機械のように扱う。しかし本来、人間は感じる存在である。喜び、悲しみ、怒り、恐れ——これらの感情を感じる。暑さ、寒さ、痛み、快感——これらの感覚を体験する。感じることができるから、人間は生きている。
相田が「のどがかわく」と書くとき、それは単なる渇きではない。身体が、生きるために水を求めている。この欲求を感じられること自体が、生命の証である。「木もれ陽がまぶしい」と感じるとき、それは光を感じ、美しさを認識できる能力の現れである。感覚があるということは、世界とつながっているということだ。
禅では、「喫茶喫飯(きっさきっぱん)」という言葉がある。お茶を飲むときはお茶を飲み、ご飯を食べるときはご飯を食べる、という意味である。当たり前のように聞こえるが、実はこれが難しい。私たちは、お茶を飲みながらスマホを見る。ご飯を食べながらテレビを見る。行為と意識が分離している。
相田の詩は、この分離を統合する。のどが渇くという感覚に、意識を向ける。木漏れ日のまぶしさを、ただ感じる。行為と意識が一致したとき、私たちは本当に「生きている」と実感できる。これが、禅の教える「一行三昧(いちぎょうざんまい)」——ひとつのことに集中する境地である。
「生きている」と「生かされている」の狭間
相田みつをの思想には、「生きている」と同時に「生かされている」という感覚がある。自分の力だけで生きているのではない。多くの支えによって、生かされているのだ。
のどが渇くとき、水を飲む。しかしその水は、どこから来たのか。雨が降り、川が流れ、浄水場で処理され、水道管を通って家に届く。この全てのシステムが機能しているから、水が飲める。また、身体が水を吸収し、細胞に届け、利用する。この生命システムが正常に働いているから、生きられる。**全ては「おかげさま」**である。
木漏れ日がまぶしいとき、それは太陽があるからだ。太陽がエネルギーを放出し、地球に届き、木々を育て、光が葉の隙間から差し込む。この宇宙的なスケールのシステムが、一瞬の「まぶしさ」を生み出す。また、目が健康であること、脳が正常に機能していること——これらの条件が揃って初めて、まぶしさを感じられる。全てが奇跡的に整っている。
相田の別の作品に「おかげさま」というものがある。全てに感謝する心。「生きているということ」の詩も、この「おかげさま」の精神と深く結びついている。自分一人で生きているのではない。無数の支えによって、生かされている。この自覚が、謙虚さと感謝を育む。
現代人が失った「生きている」実感を取り戻す
現代社会は便利になったが、その代償として、私たちは「生きている」実感を失いつつある。全てが自動化され、効率化され、快適になった。しかしその結果、身体感覚が鈍り、生命の実感が薄れた。
のどが渇く前に、ペットボトルを持ち歩く。暑さ寒さを感じる前に、エアコンが快適な温度にする。空腹を感じる前に、スナックを食べる。私たちは、不快を先回りして回避する。しかし、この先回りが、身体の声を聞く機会を奪っている。
のどが渇くという感覚は、身体からのメッセージである。「水が必要だ」と教えてくれる。この感覚を感じ、水を飲み、潤う。このプロセス全体が、生きている実感を与える。しかし、のどが渇く前に水を飲んでしまえば、この実感は得られない。
相田の詩は、現代人に問いかける。あなたは本当に「生きている」実感があるか。身体の声を聞いているか。今この瞬間を感じているか。もし失っているなら、取り戻そう。便利さを手放し、身体感覚を取り戻す。これが、生きている実感を得る道である。
具体的には、こうした実践が有効だ。スマホを置いて、散歩する。のどが渇くまで待ってから、水を飲む。ゆっくり味わって食事する。風を感じ、鳥の声を聞き、花の香りを嗅ぐ。こうした当たり前の行為を、意識的に、丁寧に行う。これがマインドフルネスであり、生きている実感を取り戻す方法である。
「生きているということ」が開く感謝の世界
相田みつをの「生きているということ」は、単なる詩ではない。それは、生き方の指針である。この詩を実践するとは、日常の中に奇跡を見出すことである。当たり前を、感謝の対象に変えることである。
朝、目が覚める。これは奇跡だ。今日も生きている。身体が動く。目が見える。耳が聞こえる。これら全てが、感謝の対象となる。朝食を食べる。食材を育てた人、運んだ人、調理した人——無数の人の支えがある。「いただきます」という言葉が、真の意味を持つ。
仕事に行く。歩けること、電車が動いていること、職場があること。全てが当たり前ではない。人と会話する。言葉を話せること、相手がいること、理解し合えること。これらも奇跡である。夜、家に帰る。帰る家があること、待つ家族がいること。そして、一日を無事に終えられたこと。**全てに「おかげさま」**である。
この視点で生きると、人生が変わる。不満が減り、感謝が増える。小さな幸せに気づく。人に優しくなれる。そして何より、生きている喜びを感じられる。相田の詩は、この感謝の世界への扉を開く鍵なのである。
今日から実践する「生きている」ことへの気づき
相田みつをの「生きているということ」を、どう実践すればいいか。以下の方法を試してみよう。
1. 朝の感謝: 目が覚めたら、「今日も生きている」と心の中で言う。身体を動かし、機能していることを確認する。
2. 身体感覚に注目: 一日に何度か、身体の感覚に意識を向ける。呼吸を感じる。心臓の鼓動を感じる。足が地面についている感覚を感じる。
3. 五感を研ぎ澄ます: 食事するとき、味を丁寧に感じる。散歩するとき、景色をよく見る、音を聞く、風を感じる。
4. 「おかげさま」を口にする: 水を飲むとき、「おかげさま」。食事をするとき、「おかげさま」。この習慣が、感謝の心を育てる。
5. 夜の振り返り: 寝る前に、今日一日生きられたことに感謝する。小さな幸せを思い出す。
これらは、特別なことではない。ただ、当たり前のことを、意識的に行うだけである。しかしこの意識の転換が、人生を変える。「生きているということ」——この奇跡を、毎日実感しよう。相田みつをが教えてくれた命の尊さを、今日から実践しよう。
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