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第9話 詩人としての覚醒——書と言葉が一つになる瞬間

若い女性の笑顔 1.生い立ちと人生
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1950年代、30歳前後の相田みつをは、重大な決断を下した。「筆を持って」という作品に、その決意が刻まれている。「筆を持って 人間として 最も深くて 最も大切なものを 書きたい」——書家として技術を磨いてきた相田が、詩人として覚醒した瞬間である。それまで相田は、短歌を詠み、古典を臨書し、漢詩を書いていた。しかし30歳頃から、古典や人の詩を作品として書くことをやめた。自分の言葉を、自分の文字で書く——この「書のシンガーソングライター」という前人未到の道を選んだのである。短歌から詩へ。古典から自作へ。技巧から本質へ——この転換は、相田の人生を決定づけた。書と詩が一つになったとき、相田みつをの芸術が完成した。「にんげんだもの」「つまづいたっていいじゃないか」「そのままでいい」——これらの言葉は、相田が詩人として覚醒したからこそ生まれた。書の技術と詩の心が融合し、世界に類を見ない作品世界が誕生した。詩人としての覚醒——それは、書家としての成熟と表裏一体だった。


短歌から始まった言葉の世界

相田みつをの言葉の世界は、短歌から始まった。旧制栃木県立足利中学校在学中、相田は書や短歌、絵に親しんだ。卒業後は歌人・山下陸奥に師事し、歌誌「一路」で短歌を学んだ。

短歌は、五七五七七の31音に思いを込める日本の伝統的な詩歌である。限られた音数の中で、風景、感情、人生を表現する。この制約が、かえって言葉を研ぎ澄ます。

1942年秋、18歳の相田は短歌の会で運命の出会いを果たす。禅僧・武井哲応が、相田の短歌を批評した。「あってもなくてもいいものは、ないほうがいいんだな。この歌なあ、下の句は要らんなあ」——この一言が、相田の言葉への姿勢を決定づけた。

余計な言葉を削ぎ落とす。本質だけを残す——この姿勢は、短歌で培われ、後の詩作の基礎となった。相田の詩が極端に短いのは、短歌で学んだ「言葉の経済学」の影響である。

しかし、短歌には制約もある。五七五七七という型。季語、枕詞、古語——伝統的な様式。相田は、もっと自由に、もっと直接的に、自分の言葉を表現したかった。そして、短歌から詩へと移行していく。


「筆を持って」——詩人としての宣言

1950年代、相田は「筆を持って」という作品を書いた。相田一人氏(長男・美術館館長)は、この作品を「相田みつをの原点に位置する作品のひとつ」と語る。

「筆を持って 人間として 最も深くて 最も大切なものを 書きたい」

この言葉は、相田の詩人としての宣言である。技巧的な書ではなく、人間の本質を書きたい。美しい字ではなく、大切なことを書きたい——この思いが、明確に表現されている。

俳優・片桐仁は、この作品を見て「字の感じは我々が知る相田みつをさんではないけれど、(みつをの)詩ですね」と語った。まだ相田の独自の書体は完成していない。しかし、詩は既に相田みつをである。

相田一人氏は続ける。「当時、書家で詩人、今でいうシンガーソングライターのような存在はほとんどいなかったそうで、本格的に書を学んだみつをは、その技術を踏まえた上で自分の詩にあった書体・文字を模索しますが、その際の葛藤はものすごいものがあったとか」。

詩人として覚醒した相田は、まだ書家としては模索中だった。自分の詩に合った文字とは何か——この問いが、何十年もの試行錯誤を生む。


30歳の決断——古典との決別

30歳頃、相田は重大な決断を下した。古典や人の詩を作品として書くことをやめたのである。

書道の世界では、古典を学び、先人の詩を書くのが王道である。中国の名書家の字を臨書し、万葉集や漢詩を書く。これが、書道の伝統的な学びである。

相田も、若い頃はそうしていた。陶淵明の詩「帰園田居」(1946年)、柿本人麻呂の歌「万葉集」(1945年)、聖澤雲天(1944年)——これらは、バリバリの正統派の書である。

しかし、相田は気づいた。古典を臨書しても、人の詩を書いても、それは自分の言葉ではない。自分の魂を込めた言葉を書きたい——この思いが、抑えきれなくなった。

また、相田は王羲之(おうぎし)のことを調べている際、重要な発見をした。王羲之が書いた漢文は、当時の中国の口語体——つまり、日常会話の言葉で書かれていた。格式高い文語ではなく、普通の人が話す言葉である。

この発見が、相田の背中を押した。書は、日常の言葉で書いていい。いや、日常の言葉で書くべきだ。古典や漢詩ではなく、自分が普段使っている言葉、自分が本当に伝えたい言葉を書く——この道を選んだ。

30歳から、相田は本名の「光男(みつお)」から「みつを」に変えた。新しい自分として、新しい道を歩む——この決意の表れである。


日常の言葉で書く勇気

古典との決別は、書道界との決別でもあった。伝統的な書道家たちは、相田の選択を理解しなかった。「なぜ、自分の言葉を書くのか」「書道は、古典を学ぶものだ」——批判の声が上がった。

しかし、相田には信念があった。専門家でなければ理解しにくい書に、何の意味があるのか。書道展で評価される書と、一般の人々の心を打つ書は、違うのではないか。

相田は、一般の人々に届ける書を書きたかった。専門家のための書ではなく、苦しんでいる人、迷っている人、励ましを必要としている人のための書を。

そのためには、日常の言葉で書く必要があった。漢詩や古典ではなく、「にんげんだもの」「つまづいたっていいじゃないか」——誰もが理解できる、平易な言葉。

日常の言葉で書く——これは、簡単なようで難しい。日常の言葉は、深みがないと思われがちである。しかし、相田は禅の修行で学んでいた。最も深い真理は、最も平易な言葉で語られる。道元禅師の『正法眼蔵』も、仏教の深い哲理を説くが、その根本は「今ここを生きる」という単純な真実である。

相田は、日常の言葉で深い真理を語る——この難題に挑戦した。


詩の特徴——短さ、平易さ、余白

相田の詩の特徴は、短さ、平易さ、余白である。

「にんげんだもの」——8文字。「つまづいたっていいじゃないか」——17文字。「そのままでいい」——8文字。相田の詩は、極端に短い。

なぜこれほど短いのか。それは、短歌で学んだ言葉の経済学と、武井哲応から学んだ「あってもなくてもいいものは、ないほうがいい」という教えの結果である。最初は、もっと長い詩だったかもしれない。しかし、推敲に推敲を重ね、削りに削った結果、これだけになった。

また、相田の詩は平易である。難しい言葉、専門用語、古語——一切使わない。小学生でも理解できる言葉だけで書く。しかし、その平易な言葉の奥に、深い哲理が潜んでいる。

そして、余白。相田の詩には、行間がある。書かれていない部分が、書かれている部分と同じくらい重要である。読者は、余白に自分の思いを重ねる。だから、同じ詩でも、人によって、時によって、響き方が違う。

詩は、改行を上手に使って表現する。改行は「間」になり、文章に深みが出る。相田は、この「間」の使い方が天才的だった。


「憂い」——詩と書の代表作

相田一人氏は、父の作品の中から一点を選ぶとしたら「憂い」(1980年頃)を選ぶと語る。

「これは父・相田みつをの詩人としての代表作であり、書家・相田みつをとしての代表作と言っていいと思う。内容的にもいかにも父らしい作品で、自分がどうしていかにして作品を書いてきたのか、その”原点”を説明しているようなところがある」。

「憂い」は、相田みつを美術館の展示作品の中でも最大のサイズを誇る。そして、この作品ができるまでに20年かかった。

詩ができるまでに10年。ある方が気に入り、「書にしてほしい」と懇願したが、一向に作品が出来上がる気配はなく、もはや忘れかけていた10年後に完成。つまり、詩が生まれるまで10年、書になるまで10年と、20年もかけてできた大作である。

この事実が、相田の創作の姿勢を物語っている。急がない。妥協しない。納得するまで、何年でも待つ。その結果として、珠玉の作品が生まれる。

「憂い」には、相田の詩と書の真髄が凝縮されている。言葉と文字が完全に一体化し、そこに相田の魂が宿っている。


書と詩の融合——シンガーソングライターとしての相田

相田一人氏は、父を「書家で詩人、今でいうシンガーソングライターのような存在」と表現した。この比喩は、的確である。

シンガーソングライターは、自分で歌詞を書き、自分で曲を作り、自分で歌う。作詞家、作曲家、歌手——この三つの役割を一人でこなす。

相田みつをも同じである。自分で詩を書き、自分で文字を書き、自分で作品を完成させる。詩人、書家、芸術家——この三つの役割を一人でこなす。

そして重要なのは、これらが分離できないことである。相田の詩を、活字で印刷したら、魅力が半減する。相田の書を、他人の詩で書いたら、意味がない。詩と書が一体となって初めて、相田みつをの作品が完成する。

作家・立松和平は、相田を「思想の語り部」と評した。「難しい言葉を一つも語らないで、仏教の根本的な哲理のようなものを語ってしまう。そして、それを読んだ人に『なにかが残る』んですね。残る――ということは、その先の世界があるということです」。

相田は、詩人として思想を語り、書家として魂を込める。この二つが融合したとき、読者の心に「なにかが残る」作品が生まれる。


批評家の評価——賛否両論

相田の作品は、文学界や書道界で賛否両論を巻き起こした。

否定的な意見も多かった。詩人の高橋順子は「相田作品は処世訓のようなもの」と評した。思潮社代表取締役で詩人の小田久郎は「今は分かりやすいものが受ける時代。詩は難解であっていい」と語った。現代詩作家の荒川洋治は「実用的で即効性のあるものが求められているのを感じる。でも、自分がどう生きるのか、長い時間をかけて考えさせてくれるのは文学しかない」と述べた。

奥本大三郎は、さらに厳しい。「素直に言ってこの相田みつをと言う人の、わざと下手に書いて人に阿(おもね)るような字も、それを紙に書きつけた、人の心の底の劣等感をごまかすような文句も私は嫌いである。上手に書ける字をわざと下手に書く人には何か魂胆がある、と警戒したくなる」。

一方、肯定的な評価もあった。詩人の杉山平一は「相田みつをを詩人として認めるべき」と主張した。「大勢の人に相田作品が読まれている現実を、無視するわけにはいかないでしょう。むしろ詩人は、独りよがりになりすぎた現代詩の反省材料として、相田ブームを見るべきではないか」。

この賛否両論が、何を意味するか。それは、相田の作品が既存のジャンルに収まらないことを示している。詩なのか、書なのか、処世訓なのか、芸術なのか——どのカテゴリーにも完全には当てはまらない。だからこそ、評価が分かれる。

しかし、一つ確かなことがある。多くの人が、相田の作品を必要としている。評論家の評価ではなく、一般の人々の支持が、相田の価値を証明している。


妥協なき創作——墨の色、印刷位置への執着

相田の詩人としての覚醒は、書家としての完璧主義と結びついていた。相田は、作品作りに決して妥協しなかった。

墨の色の変化や印刷位置のわずかなズレを理由に、大量の色紙を廃棄したこともあった。相田にとって、作品は完璧でなければならなかった。いや、完璧ではない——納得できるものでなければならなかった。

相田一人氏は語る。「作品を書いているときの父は非常に怖かった」。筆を持つ相田は、鬼気迫る表情をしていた。しかし筆を置くと、至って普通の父親で、わりと冗談も言う面白い人だった。「仕事場で書いているときと、家族とくつろいでいるときのギャップが激しすぎた」。

書くことは、相田にとって命懸けだった。自分の魂を削って、言葉を生み、文字を書く。その苦悩は、想像を絶する。

また、相田は同じ言葉を何度も作品にした。「しあわせはいつも自分のこころがきめる」——この言葉は、何年か経って別の作品で書くこともあった。相田の中の正解が決まっていなくて、しっくりくる答えを模索しながら何年も日々を生きていたのだろう。

相田は、悩んでいた。作品を書いた瞬間も現在進行形で悩んでいて、悩みながら筆を動かしている様子が作品からありありと感じられる


生涯をかけた問い——「人間とはどう生きるべきか」

相田みつをは、生涯、一つの問いを追い続けた。「人間とはどう生きるべきか」。

この問いは、禅の修行で深められ、詩として結晶化され、書として表現された。相田の作品は、すべてこの問いへの答えである。

相田みつを美術館の公式サイトには、こう書かれている。「みつをは生涯人間とはどう生きるべきかを問い、『自分の言葉、自分の書』という形で自分自身へ語り続けました」。

自分自身へ語り続けた——この部分が重要である。相田は、他人に説教するために作品を書いたのではない。自分自身に問いかけ、自分自身を励まし、自分自身を戒めるために書いた。

だからこそ、その言葉が他人の心にも響く。説教ではなく、共感。教えではなく、寄り添い。相田の言葉は、見る者の心に寄り添うように響く。

相田一人氏は語る。「父は、見る人を『和ませよう』『癒やそう』という気持ちで作品を書いたことは一度もありません。全部、自分に向けての言葉です。だからこそ、見る人の心に響くんです。作品を通して、人は自分と対話するようになる」。


詩人としての完成——60歳での開花

相田の詩人としての覚醒は、30歳頃に始まった。しかし、完成したのは60歳である。

1984年、60歳のとき、相田は初の詩集『にんげんだもの』を出版した。これが、200万部を超える大ベストセラーとなった。相田の名前は、全国に知られるようになった。

60歳での成功——これは、相田の人生そのものを体現している。「一歩一歩だよ」と説いた相田自身が、一歩一歩歩み続け、60年かけて花を咲かせた。

30歳で詩人として覚醒し、30年間、試行錯誤を続け、60歳で開花した。この長い時間が、相田の作品に深みを与えた。若い頃に成功していたら、これほど深い作品は生まれなかっただろう。

苦労、貧困、孤立、迷い、苦悩——これらすべてが、相田の詩を育てた。相田は、人生経験をすべて詩に昇華した。だからこそ、同じように苦しむ人々の心に届く。

相田みつをは、詩人として覚醒し、書家として成熟し、人間として深まった。その結果として、世界に類を見ない作品世界が生まれた。書と言葉が一つになる瞬間——それは、相田の人生すべてが結実する瞬間だった。


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