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第8話 独自の書体への到達——「下手でいい」という境地

園児 1.生い立ちと人生
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1947年、23歳の相田みつをは、鄭文公碑(ていぶんこうひ)の臨書で全国コンクール一席を獲得した。1260字すべてを臨写する「全臨」という難しい課題で、相田は日本一になった。毎日書道展にも1954年から7年連続で入選。技巧派の書家として、順調な道を歩んでいた。しかし相田は、この道を捨てた。30歳頃から、古典や人の詩を書くことをやめ、「自分の言葉を、自分の文字で書く」という前人未到の道を選んだ。書道界では異端である。書家は、古典を学び、先人の詩を書く。自分の言葉を自分の文字で書くこと自体が稀有なのである。しかも相田の書体は、伝統的な書道の美意識から見れば「下手」だった。掠れ、歪み、バランスの崩れ——書道家たちは眉をひそめた。しかし相田は、この「下手」を追求した。何十年もかけて、試行錯誤を重ね、独自の書体に到達した。それは、技術を捨てたのではない。技術を超えたのである。「下手でいい」——この境地に至るまで、相田は苦悩し、迷い、書き続けた。その果てに生まれた書体が、なぜ多くの人の心を打つのか。技術よりも大切なものとは何か。相田みつをの書の真髄を探る。


全国コンクール一席——23歳の栄光

1947年(昭和22年)、相田みつを23歳。戦後の混乱期である。相田は、鄭文公碑(ていぶんこうひ)の臨書で全国コンクール一席を獲得した。

鄭文公碑とは、中国の南北朝時代の北魏の書家・鄭道昭(ていどうしょう、?-516年)による書である。力強く、堂々とした楷書の傑作として知られる。この鄭文公碑を「全臨」する——つまり、1260字すべてを臨写するという課題だった。

全臨は、膨大な忍耐と集中力を要する。一字一字、原本と寸分違わぬように書き写す。筆の運び、字形、バランス——すべてを正確に再現する。これは、書の基礎技術の集大成である。

23歳の青年が、この難関で全国一席を獲得した。相田みつをの書の才能は、この時点で証明されていた。書道界では「このまま行けば、それなりのポジションを得ていた」とよく言われる。順風満帆な道が開けていた。

しかし、相田はその道を選ばなかった。


毎日書道展7年連続入選——技巧派としての出発

1954年(昭和30年)から1960年まで、相田は毎日書道展に7年連続で入選した。毎日書道展は、書道界の最高峰のひとつである。ここに入選し続けることは、書家として認められることを意味する。

相田の作品は、当時「バリバリの正統派」だった。伝統的な書道の様式を守り、技巧を駆使した作品である。見る者は「字がうまい」「若いときから誰が見てもうまい字を書いていた」と評する。

相田一人氏(相田の長男・美術館館長)は語る。「20代前半であれほどの書を書いていた」。相田の技術は、若い頃から完成されていた。

しかし、相田の心は満たされなかった。古典を臨書し、人の詩を書く——これは、書道の王道である。しかし、それは自分の言葉ではない。自分の魂を込めた言葉を、自分の書で表現したい。この思いが、相田の中で膨らんでいった。


「宿命」——書道界への複雑な思い

1950年(昭和26年)、相田は栃木県芸術祭書道中央展に「宿命」という作品を出品した。これは、詩文書——詩と書を組み合わせた作品である。

この作品で、相田は伝統的な書道界に対する複雑な思いを吐露した。専門家でなければ理解しにくい書のあり方に疑問を抱いていた。一般の人々に届かない書に、何の意味があるのか

書道は、書家のためのものなのか。それとも、見る人のためのものなのか。コンクールで評価される書と、人の心を打つ書は、同じなのか、違うのか——相田は、この根本的な問いに直面していた。

そして、相田は決断した。「書」と「詩」の高次元での融合を目指す。古典や人の詩ではなく、自分の言葉を、自分の文字で書く。この前人未到の道を歩むことを。


30歳の転機——「自分の言葉を書きたい」

30歳頃、相田の作風は大きく変わった。古典や人の詩を作品として書くことはなくなり、自分の詩を自分の文字で書くようになった。

相田一人氏は語る。「本人が言っていたのは、『自分の言葉を書きたいんだ』と。自分の言葉を書くためには、こういう文字(伝統的な書体)はどうも合わなかったようで、いろいろ試行錯誤して独自の世界を築いていった」。

伝統的な書体は、美しい。しかし、相田の詩には合わなかった。「にんげんだもの」「つまづいたっていいじゃないか」——こうした平易で、生々しい言葉を、格式高い楷書で書いたら、どうなるか。違和感がある。言葉と文字が、噛み合わない。

相田は、言葉に合った文字を探し始めた。技巧を捨て、装飾を削ぎ落とし、言葉の本質を伝える文字を追求した。

また、この時期から、相田は本名の「光男(みつお)」から「みつを」に変えた。30歳からの人生は、新しい自分として生きる——この決意の表れだった。


「いのちけ」——30代後半の試行錯誤

1960年代後半、30代後半の相田の作品に「いのちけ」がある。「いのち懸け」——命懸けという意味である。

この作品を見た人は、「まだ、イメージする相田みつをと、ちょっと違いますね。なんか厳しい感じが」と感想を述べる。掠れが強調され、まさに命懸けという雰囲気を醸し出している。

この時期の相田は、まだ模索中だった。どういう文字が、自分の言葉に合うのか。太い線か、細い線か。掠れを強調するか、しないか。余白をどう使うか——様々な試みをしていた。

相田一人氏は語る。「作品を書いているときの父は非常に怖かった」。筆を持つ相田は、鬼気迫る表情をしていた。しかし筆を置くと、至って普通の父親で、わりと冗談も言う面白い人だった。「仕事場で書いているときと、家族とくつろいでいるときのギャップが激しすぎた」。

書くことは、相田にとって命懸けだった。自分の魂を削って、言葉を生み、文字を書く。その苦悩は、想像を絶する。


何回も、何回も、何回も書き続ける

相田みつをの独自の書体は、一朝一夕にできたものではない。何十年もかけて、試行錯誤を重ね、何回も、何回も、何回も書き続けた結果である。

俳優・片桐仁は、相田みつを美術館を訪れた際、こう語った。「誰もが知っている相田みつをさんですが、20代前半であれほどの書を書き、ここから自分の言葉を書にするために、あの字体になっていった。しかも、何回も、何回も、何回も書き続け……それによって、あの人々の心にスッと入ってくる字になるんだなっていうことに衝撃を受けました」。

相田の書は、即興ではない。計算された結果である。しかし、その計算は意識的なものではなく、何千回、何万回と書き続けた身体の記憶から生まれる。

同じ言葉を、何度も書く。少し太く、少し細く、少し掠れを強く、少し余白を広く——微妙な変化をつけながら、何度も何度も書く。そして、「これだ」と思う一枚に出会う。しかし、翌日書いたら、もっと良い一枚ができる。その繰り返し。

この膨大な試行の果てに、相田みつをの書体が完成した。


書道界からの孤立——「下手」という批判

相田の独自の書体は、伝統的な書道界から批判された。「下手」「子供でも書けそう」「書道の品格がない」——厳しい言葉が投げかけられた。

書道には、長い歴史と伝統がある。古典を学び、師に学び、型を守る。そして、型を守った上で、少しずつ自分の個性を加えていく——これが書道の正統な道である。

しかし、相田は型を破った。いや、型を捨てた。伝統的な美意識を無視し、自分の言葉に合った文字を追求した。これは、書道界にとって許しがたい逸脱だった。

相田は、書道展への出品をやめた。書道界との関係を断った。これは、孤独な道である。評価されない。認められない。しかし、相田は歩み続けた。

なぜか。それは、一般の人々に届けたいという強い思いがあったからである。書道家のための書ではなく、普通の人々の心に届く書を書きたい。その一心で、相田は独自の道を進んだ。


「下手でいい」という境地

相田は、あるとき「下手でいい」という境地に至った。技巧的に下手でも構わない。大切なのは、言葉が伝わることである。

実際、相田の書は技巧的には「下手」かもしれない。線は歪み、字形は崩れ、バランスは不安定である。しかし、その「下手」な書に、多くの人が感動する。なぜか。

それは、人間の真実が、そこに滲み出ているからである。完璧な書には、冷たさがある。隙がない。しかし、相田の書には、温かさがある。不完全さがある。その不完全さが、見る者の心に響く。

「にんげんだもの」という言葉を、完璧な楷書で書いたら、どうなるか。言葉と文字が矛盾する。「にんげんだもの」とは、不完全さの肯定である。だから、文字も不完全でいい。いや、不完全であるべきである。

相田は、技術を捨てたのではない。技術を超えたのである。技術があるからこそ、あえて崩せる。基礎があるからこそ、自由になれる。相田は、技術の頂点に立った後、技術を超える道を選んだ。


試行錯誤の痕跡——多様な表現手法

相田みつを美術館を訪れると、相田の試行錯誤の痕跡が見える。すべての作品が、あの「相田みつをっぽい」太くて濃くて直線的な線で書かれているのではない。

細い線、かすれた線を出したり、文字を崩したり、一部に象形文字のようなモチーフを使ったり——様々な手法を試している。また、色や模様の入った布を紙代わりにして、筆を動かして文字を書いた部分が白く色が抜ける「ろうけつ染め」の手法で創った作品もあった。

同じ言葉が、何度も作品に登場する。「しあわせはいつも自分のこころがきめる」——この言葉は、何年か経って別の作品で書くこともあった。相田の中の正解が決まっていなくて、しっくりくる答えを模索しながら何年も日々を生きていたのだろう。

相田は、悩んでいた。作品を書いた瞬間も現在進行形で悩んでいて、悩みながら筆を動かしている様子が作品からありありと感じられる。相田は、悟りを開いた仏のような人ではなく、悩み続ける人間だった。だからこそ、その言葉が、同じように悩む人々の心に届く。


「憂い」——詩人と書家の代表作

相田一人氏は、父の作品の中から一点を選ぶとしたら「憂い」(1980年頃)を選ぶと語る。

「これは父・相田みつをの詩人としての代表作であり、書家・相田みつをとしての代表作と言っていいと思う。内容的にもいかにも父らしい作品で、自分がどうしていかにして作品を書いてきたのか、その”原点”を説明しているようなところがある」。

「憂い」には、相田の書の真髄が凝縮されている。言葉と文字が一体となり、そこに相田の魂が宿っている。技術ではなく、心。美しさではなく、真実。これが、相田みつをの書である。


「下手」を超えて——人々の心に届く書

相田の書は、「下手」なのか、「上手い」のか。この問いに、明確な答えはない。しかし、一つ確かなことがある——相田の書は、人々の心に届く

東京国際フォーラムにあった相田みつを美術館(2024年1月閉館)では、平日でも多くの人が訪れていた。有名な作品の前では中央を譲りあうような混み具合だった。そして、作品の前で涙する人がいた。

書道展で賞を取る書は、評価される。しかし、必ずしも人の心を打つわけではない。一方、相田の書は、書道界から評価されなかった。しかし、無数の人々の心を打った。

どちらが価値があるか。相田は、後者を選んだ。書道界という狭い世界ではなく、広く一般の人々に届ける——この道を選んだ。

そして、その選択は正しかった。60歳で出版した『にんげんだもの』は200万部を超える大ベストセラーとなり、相田の言葉と書は、日本中に、世界中に広がった。


独自の書体が生んだ「書のシンガーソングライター」

書道の世界では、自分の言葉を自分の文字で書くこと自体が稀有である。通常、書家は古典を学び、先人の詩を書く。「書」と「詩」は、別々の芸術である。

しかし、相田は両方を融合させた。自分で詩を書き、自分で文字を書く。言わば「書のシンガーソングライター」である。

この融合が、相田みつをの独自性である。言葉と文字が、完全に一体化している。言葉が文字を生み、文字が言葉を生む。切り離せない。

また、相田の書体は、詩の内容と完全に一致している。「にんげんだもの」という温かい言葉には、温かい文字が。「いのちけ」という激しい言葉には、激しい文字が——言葉と文字が、同じ魂から生まれている。

この一体感が、見る者を圧倒する。言葉だけでも感動する。文字だけでも感動する。そして、両方が組み合わさったとき、感動が倍増する。これが、相田みつをの魅力である。


「人間だもの」——貧しくとも自らの世界を追い求めた芸術家

片桐仁は、相田の半生を辿った後、こう語った。「人間だもの、相田みつをさん……素晴らしい!」。そして、貧しくとも自らの世界を追い求めた孤高の芸術家に拍手を贈った。

相田の人生は、決して順風満帆ではなかった。書道界から孤立し、経済的にも苦しかった。ろうけつ染めや地元商店からデザインを請け負って生計を立てていた。書家としての収入は、ほとんどなかった。

しかし、相田は諦めなかった。自分の信じる道を歩み続けた。何十年も、独自の書体を追求し続けた。そして、60歳で花開いた。

「下手でいい」という境地に至るまで、相田は苦悩し、迷い、書き続けた。その果てに生まれた書体が、今、無数の人々の心を支えている。

技術よりも大切なもの——それは、真実を伝えたいという魂である。相田みつをの書は、技術を超えて、魂を伝える。だからこそ、時代を超えて、人々の心に届き続けるのである。


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