「人間は怠けものではない」。この画期的な主張で、日本の心理学に新しい風を吹き込んだ研究者がいます。波多野誼余夫氏は、稲垣佳世子氏との共著『知的好奇心』で1973年毎日出版文化賞を受賞し、内発的動機づけという概念を日本に広めました。
慶應義塾大学教授、放送大学教授を歴任し、国際的にも活躍した日本を代表する発達心理学者です。全米教育アカデミー外国人会員に選ばれ、欧米7つの学術誌の編集委員を務めるなど、留学経験のない「国際派」として知られました。
珠算式暗算の熟達化、日常的認知の研究、生物学的知識の発達など、独創的なテーマに取り組み、2006年に70歳で逝去するまで認知科学の発展に貢献し続けました。その研究が示す人間の学びの本質を辿ります。
著者の基本情報
- 氏名(ふりがな): 波多野誼余夫(はたの ぎよお)
- 生年月日: 1935年11月27日〜2006年1月13日
- 学歴: 東京大学教育学部教育心理学科卒業(1958年)、同大学院博士課程修了(1964年、教育学博士)
- 経歴: 獨協大学教授、慶應義塾大学文学部教授を歴任、2001年定年退職後、放送大学教養学部教授。1992年全米教育アカデミー外国人会員
- 現職: (故人・生前は放送大学教授)
- 専門: 認知心理学、教育心理学、発達心理学、認知科学
- 紹介文: 東京生まれ。両親はともに心理学者の波多野完治・波多野勤子。名前はフランスの心理学者ポール・ギヨームにちなむ。Cognition, Cognition & Instruction, Human Developmentなど欧米7つの学術誌の編集委員を務めた。熟達化、日常的認知、生物学的知識の発達などを研究テーマとし、国際的に高い評価を受けた。2006年間質性肺炎のため急逝。
知的好奇心という人間の本質
波多野氏の研究の出発点は、「人間は本当に怠けものなのか」という問いでした。伝統的な心理学の理論は、人間を「ムチとニンジン」がなければ学びも働きもしない存在として捉えてきました。しかし、波多野氏は稲垣佳世子氏との共同研究を通じて、全く異なる人間像を提示したのです。
1973年に出版した『知的好奇心』は、興味深い実験の数々を紹介しながら、人間は生まれつき積極的に情報的交渉を求める旺盛な知的好奇心を持っていることを実証しました。赤ちゃんは、報酬がなくても新しいものに目を向け、触れようとします。子どもは、誰に強制されなくても「なぜ?」と問い続けます。この内発的な動機こそが、人間らしく生きる原動力なのです。
この著作は毎日出版文化賞を受賞し、日本の教育心理学に大きな影響を与えました。外的な報酬や罰に頼る教育から、子どもの内発的な興味を引き出す教育へ。この視点の転換は、今日の教育においても重要な指針となっています。
また、波多野氏は「楽しい学習の設計」の可能性を具体的に追求しました。学習は苦しいものではなく、本来楽しいものであるはず。幼児の知的教育も、強制的な詰め込みではなく、子どもの好奇心を育てることが重要だと説きました。この考え方は、多くの親や教育者に「わかる!」という納得感をもたらしました。
無気力の心理学と効力感の研究
波多野氏のもう一つの重要な貢献が、無気力と効力感の研究です。1981年に稲垣佳世子氏と共著で出版した『無気力の心理学』は、現代社会に蔓延する無気力の原因を科学的に解明しました。
「どうせダメだ」という無力感は、なぜ生まれるのか。波多野氏は、衣食住が満たされ豊かな環境というだけでは、「効力感」—意欲的に環境に働きかける態度—は生まれないと指摘します。効力感を育てるには、自律性の感覚、他者との暖かい交流、熟達の経験が必要なのです。
特に印象的なのが、「熟達と生きがい」という視点です。何かを上達させ、それを通じて他者に認められる経験。この熟達化のプロセスこそが、人間に生きがいをもたらすと波多野氏は説きました。単に結果を出すことではなく、技能を向上させていく過程そのものが重要なのです。
この研究は、教育だけでなく、社会や職場の在り方にも示唆を与えました。やりがいを持って生きられる社会とはどのようなものか。子どもも大人も効力感を持てる環境をどう作るか。波多野氏の研究は、こうした問いに対する科学的な答えを提供してくれました。
2026年現在、AIやデジタル技術の進展により、人間の仕事は大きく変化しています。そんな時代だからこそ、波多野氏が示した「内発的動機」と「効力感」の重要性は増しているのです。
珠算式暗算と日常的認知の研究
波多野氏の研究の独創性は、テーマ選びにも表れています。珠算式暗算の熟達化、日常的認知、子どもの生物学的知識など、従来の心理学があまり注目してこなかった領域に光を当てたのです。
珠算式暗算の研究では、そろばんの達人がどのように暗算を行っているかを詳細に分析しました。熟達者は、頭の中に「そろばん」のイメージを浮かべ、そこで珠を動かすことで計算を行います。これは「定型的熟達化」の一事例として、認知科学の重要な研究対象となりました。
また、稲垣氏との共著『人はいかに学ぶか』では、日常的認知という概念を展開しました。学校で学ぶ知識と、日常生活で使われる知識は異なります。八百屋の主人は、学校で習った算数は忘れていても、商売に必要な計算は瞬時に行えます。この「文脈に埋め込まれた知識」の研究は、学習理論に新しい視点をもたらしました。
さらに、子どもの素朴生物学の研究では、幼い子どもでも驚くほど体系的な生物学的知識を持っていることを明らかにしました。教えられなくても、子どもは生き物について独自の理論を構築していきます。この研究成果は英文で発表され、国際的に高い評価を受けました。
国際派研究者としての活躍
波多野氏の特筆すべき点は、留学経験がないにもかかわらず、国際的に活躍した「国際派」研究者だったことです。執筆の大半は英文であり、Cognition、Cognition & Instruction、Human Developmentなど、欧米の一流学術誌の編集委員を務めました。
1992年には、全米教育アカデミーの外国人会員に選ばれました。これは、日本の心理学者として極めて稀な栄誉です。波多野氏の研究が、国際的な水準で高く評価されていたことを示しています。
また、波多野氏は国際的な研究ネットワークの中心的存在でもありました。海外の研究者との共同研究を積極的に行い、日本の認知科学を世界に発信し続けました。2006年の逝去後、日本認知科学会の追悼特集には、国内外の多くの研究者から寄稿がありました。それぞれの追悼文から立ち現れる波多野氏の研究者像は、国際的な視野を持ちながら、日本の文化や教育の特性にも深い理解を示す姿でした。
三宅なほみ氏は「海外での研究発表にさりげなく日本文化固有の味付けをするのがうまかった」と評しています。単に欧米の理論を輸入するのではなく、日本の文脈で独自の研究を行い、それを世界に発信する。波多野氏の姿勢は、現代の研究者にとっても手本となるものです。
この先に進む前に、ほんの一息
波多野誼余夫の研究哲学と人間観
波多野氏の研究を貫いているのは、「人間の認知活動のリアリティから離れることなく、その真髄を追及する」という姿勢でした。抽象的な実験室実験だけでなく、日常生活の中での学びや熟達に注目したのは、この哲学に基づいています。
波多野氏の人間観は、fundamentally optimisticなものでした。人間は本来、学びたい、成長したいという欲求を持っている。この内発的な動機を育てることができれば、誰もが意欲的に学び続けることができる。この信念が、波多野氏の研究の原動力となっていました。
また、波多野氏は稲垣佳世子氏との長年の共同研究でも知られています。『知的好奇心』『無気力の心理学』『人はいかに学ぶか』など、主要な著作はすべて稲垣氏との共著です。二人の協働は、日本の心理学史に残る成果を生み出しました。異なる視点を持つ研究者が対話を重ねることで、より深い洞察が得られる。波多野氏と稲垣氏の関係は、そのことを示しています。
両親も心理学者という家庭に生まれ、フランスの心理学者の名前を与えられた波多野氏。その人生そのものが、心理学への深い愛情に満ちていました。2006年1月13日、間質性肺炎のため急逝。享年70歳でした。しかし、その研究は今も多くの研究者に引き継がれ、発展を続けています。
代表書籍紹介
1. 『知的好奇心』(中公新書、1973年、稲垣佳世子氏と共著)
毎日出版文化賞を受賞した名著です。人間は生まれつき積極的に情報的交渉を求める旺盛な知的好奇心を持ち、それこそが人間らしく生きる原動力であることを実証しました。内発的動機づけの重要性を説き、怠けもの説に基づく学習・労働観を鋭く批判。楽しい学習の設計や幼児の知的教育の可能性を具体的に追求した画期的な著作です。
2. 『無気力の心理学 やりがいの条件』(中公新書、1981年、稲垣佳世子氏と共著)
現代社会に蔓延する無気力の原因を科学的に解明した一冊です。豊かな環境だけでは効力感は生まれないことを示し、自律性の感覚、他者との交流、熟達の意義など、さまざまな角度から効力感を発達させる条件を掘り下げました。子どもも大人もやりがいを持って生きられる教育や社会の在り方についてヒントを示す名著です。
3. 『人はいかに学ぶか 日常的認知の世界』(中公新書、1989年、稲垣佳世子氏と共著)
学校での学びと日常生活での学びの違いを明らかにした画期的な著作です。文脈に埋め込まれた知識、状況に応じた認知の柔軟性など、日常的認知の特性を詳しく分析しました。八百屋の主人の計算能力など、具体的な事例を通じて、人間の学びの本質を解き明かしています。
4. 『生涯発達の心理学』(岩波新書、1990年、高橋恵子氏と共著)
人間の発達を生涯にわたる過程として捉えた一冊です。従来の発達心理学が子ども期に焦点を当ててきたのに対し、成人期、老年期の発達にも光を当てました。生涯を通じて人間は学び、成長し続けることができる。この希望に満ちたメッセージは、多くの読者に勇気を与えました。
5. 『文化心理学入門』(岩波書店、1997年、高橋恵子氏と共著)
文化と心理の関係を探求した意欲作です。人間の認知や発達は、文化的文脈と切り離せません。日本の文化の中で育つ子どもと、欧米の文化の中で育つ子どもでは、認知の仕方が異なります。この視点は、グローバル化が進む現代においてますます重要性を増しています。
まとめ 学びの喜びを科学する
波多野誼余夫氏の人生と研究は、人間の学びの本質を科学的に解き明かすことに捧げられました。「人間は怠けものではない」という信念のもと、知的好奇心、内発的動機づけ、効力感という概念を通じて、人間のポジティブな側面を明らかにしたのです。
2026年現在、私たちは急速な技術革新と社会変化の中を生きています。AIが台頭し、従来の仕事が消滅する一方で、新しい仕事が生まれています。こうした時代に必要なのは、生涯にわたって学び続ける力です。波多野氏が示した「内発的動機」と「効力感」は、まさにこの力の源泉なのです。
外的な報酬や罰ではなく、内側から湧き上がる好奇心。結果だけでなく、熟達していく過程そのものを楽しむこと。他者との温かい交流の中で、自分の成長を実感すること。波多野氏の研究が教えてくれる、こうした学びの本質は、時代を超えて変わることがありません。
留学経験なしに国際的な研究者となり、欧米7つの学術誌の編集委員を務めた波多野氏。その姿は、グローバル化の時代を生きる私たちにとっても励みとなります。日本にいながら世界レベルの研究を行い、日本の文化的文脈を活かしながら普遍的な知見を生み出す。そんな研究の在り方を、波多野氏は示してくれました。
2006年に急逝した波多野誼余夫氏。しかし、その研究は稲垣佳世子氏をはじめ多くの研究者に引き継がれ、今も発展を続けています。
知的好奇心という人間の本質、学びの喜び、生涯にわたる成長の可能性。波多野氏が明らかにしてくれた、そんな希望のメッセージを胸に、私たちも学び続けていきたいものです。
ここまで、時間を分けてくださり、ありがとうございます。
もし、まだ少しだけ余白が残っているなら。
もうひとつの視点を。
いづれかの言葉が、ゆっくり馴染みますように。
それぞれの一日を。



