「親も育つ」。この画期的な視点で、日本の子育て観に革命をもたらした心理学者がいます。柏木惠子氏は、東京女子大学名誉教授として長年発達心理学と家族心理学の研究に従事し、子どもだけでなく親もまた成長する存在であることを明らかにしました。
1995年に出版した『親の発達心理学』、2008年の『子どもが育つ条件』、2013年の『おとなが育つ条件』など、多くのベストセラーを生み出し、日本学術会議会員や日本発達心理学会理事長を務めました。
2011年には瑞宝中綬章を受章。ジェンダー問題の論客としても知られ、歴史人口学・文化人類学・家族社会史の知見を背景に、変動する社会と家族の在り方を問い続けました。親子の成長を科学的に解き明かした柏木氏の人生と研究を辿ります。
著者の基本情報
- 氏名(ふりがな): 柏木惠子(かしわぎ けいこ)
- 生年月日: 1932年7月
- 学歴: 東京女子大学文学部心理学科卒業(1955年)、東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了(1960年)、1986年教育学博士(東京大学)
- 経歴: 東京女子大学講師、助教授、教授、1990年定年退職・名誉教授、白百合女子大学文学部教授、文京学院大学人間学部教授・大学院人間学研究科教授を歴任
- 現職: 東京女子大学名誉教授
- 専門: 発達心理学、家族心理学
- 紹介文: 千葉県出身。日本学術会議会員(第18期・第19期)、日本発達心理学会理事長などを歴任。2011年瑞宝中綬章受章。発達心理学の分野で、歴史人口学・文化人類学・家族社会史など広い知見を背景に、変動する社会と家族・人間の発達を新しい視点で捉え、発達研究の枠を広げた。ジェンダー問題に関する急進的な論客としても知られる。夫は人格心理学者の柏木繁男氏。
親の発達心理学という新しい視点
柏木氏の最大の貢献は、「親も育つ」という視点を日本に広めたことです。従来の発達心理学は、子どもの成長に焦点を当ててきました。しかし柏木氏は、親もまた子育てを通じて成長する存在であることを科学的に明らかにしたのです。
1995年に出版した『親の発達心理学―今、よい親とはなにか―』は、この新しい視点を提示した画期的な著作でした。親になることで、人は責任感を持ち、忍耐力を身につけ、視野を広げていきます。子育ては決して一方的に「教える」ものではなく、親子が相互に影響し合いながら共に成長していく過程なのです。
この考え方は、多くの親に希望を与えました。「完璧な親」を目指して苦しむのではなく、子どもと一緒に成長していけばいい。失敗しながらも学んでいけばいい。そう思えることで、多くの親が肩の力を抜くことができたのです。「わかる!」という感覚は、自分の経験が学術的に裏付けられたときに生まれます。柏木氏の研究は、まさにそうした納得感をもたらしてくれました。
また、柏木氏は「親と子の愛情と戦略」(2011年)で、親子関係を進化心理学の視点からも分析しました。親の愛情は無償のものではなく、子孫を残すという生物学的な戦略でもある。この冷徹な視点と、温かな家族観の両立が、柏木氏の研究の魅力です。
子どもが育つ条件とおとなが育つ条件
柏木氏の思想は、2008年の『子どもが育つ条件』と2013年の『おとなが育つ条件』という二冊の岩波新書に集約されています。この二冊は、発達心理学の知見を一般読者にもわかりやすく伝えた名著として、多くの人々に読まれています。
『子どもが育つ条件』では、家族心理学の視点から、子どもが健やかに育つために必要な条件を明らかにしました。それは、豊かな物質環境ではなく、親子の温かな関係性、自律性を尊重する養育態度、そして社会との適切なつながりです。過保護でも放任でもない、子どもの主体性を育てる関わり方。その具体的な方法が、データに基づいて示されています。
『おとなが育つ条件』では、生涯にわたる人間の成長を論じました。人は子ども時代だけでなく、青年期、壮年期、老年期と、生涯を通じて変化し続けます。柏木氏は、「おとなが育つ」ために必要な条件として、①新しい役割への挑戦、②他者との関わり、③省察する力の三つを挙げています。
特に印象的なのが、「父親の発達」という視点です。柏木氏は1993年に『父親の発達心理学』を編纂し、父親もまた子育てを通じて成長することを示しました。母親だけでなく、父親も育児に関わることで、人間として成長できる。この視点は、2026年現在の「父親の育児参加」という社会的テーマにも通じています。
日米文化比較から見えた日本の家族
柏木氏の研究の特徴は、日米文化比較という視点です。大学に勤めてから、子育てに関する大規模な文化比較研究を日米間で行いました。日本人、日系アメリカ人、白人系アメリカ人という三つのグループを比較することで、文化が子育てや発達にどのような影響を与えるかを明らかにしたのです。
研究の結果、日本の母親はアメリカの母親に比べて、子どもとの一体感が強く、相互依存的な関係を重視することがわかりました。一方、アメリカの母親は、子どもの自律性をより早い段階から重視します。どちらが良い悪いではなく、文化によって価値観が異なるという理解が重要なのです。
この文化比較の視点は、グローバル化が進む現代において、ますます重要性を増しています。異なる文化背景を持つ人々が共生する社会では、「自分の常識は相手の常識ではない」という理解が不可欠です。柏木氏の研究は、そうした文化的多様性への理解を深めるヒントを与えてくれます。
また、柏木氏は歴史人口学や家族社会史の知見も活用しました。江戸時代の家族と現代の家族では、その構造も機能も大きく異なります。「昔はよかった」という単純な懐古主義ではなく、歴史的変遷を踏まえて現代の家族を理解する。この視点が、柏木氏の研究に深みを与えています。
ジェンダー問題の急進的論客として
柏木氏は、発達心理学者であると同時に、ジェンダー問題の急進的な論客としても知られています。1995年に高橋恵子氏と共編した『発達心理学とフェミニズム』、2003年の『心理学とジェンダー』、2008年の『日本の男性の心理学』など、ジェンダー研究においても重要な業績を残しました。
柏木氏が一貫して問うてきたのは、「性別役割分業は本当に自然なことなのか」という疑問です。「男は仕事、女は家庭」という役割分担は、生物学的必然ではなく、社会が作り出した構造です。この構造が、女性の可能性を狭めているだけでなく、男性をも苦しめている。柏木氏は、そのことを心理学のデータで示したのです。
特に『日本の男性の心理学』では、「もう一つのジェンダー問題」として、男性が抱える困難に光を当てました。「男らしくあれ」という社会的圧力、感情を表現しにくい文化、仕事中心の生き方。これらは男性にとっても生きづらさの源泉となっています。ジェンダー問題は女性だけの問題ではなく、すべての人の問題である。この視点は、現代の多様性の議論にも通じています。
この先に進む前に、ほんの一息
柏木惠子の研究哲学と人間観
柏木氏の研究を貫いているのは、「人間は生涯を通じて成長し続ける」という信念です。子どもだけでなく、親も、そして老人も、その時々の課題に向き合いながら発達していきます。この生涯発達の視点は、1990年に高橋恵子氏と共著で出版した『生涯発達の心理学』にも表れています。
また、柏木氏は「家族」という単位を重視しました。個人の発達は、家族という文脈の中で起こります。父親、母親、子ども、それぞれが相互に影響し合いながら、家族全体として変化していく。この視点は、2009年に平木典子氏と共著で出版した『家族の心はいま』にも示されています。
柏木氏の研究仲間には、高橋恵子氏、平木典子氏など、日本を代表する心理学者が名を連ねています。共同研究、共編著という形で、多くの研究者と協働してきました。学問は一人で行うものではなく、仲間との対話の中で深まっていく。柏木氏の姿勢は、そのことを示しています。
2011年、長年の功績が認められ、柏木氏は瑞宝中綬章を受章しました。発達心理学、家族心理学、ジェンダー研究。多岐にわたる分野で、日本の心理学の発展に貢献してきた功績が評価されたのです。
代表書籍紹介
1. 『子どもが育つ条件 家族心理学から考える』(岩波新書、2008年)
家族心理学の視点から、子どもが健やかに育つための条件を明らかにした名著です。豊かな物質環境ではなく、親子の温かな関係性、自律性を尊重する養育態度、社会との適切なつながりが重要であることを、データに基づいて示しています。過保護でも放任でもない、子どもの主体性を育てる関わり方の具体的な方法が学べる一冊です。
2. 『おとなが育つ条件 発達心理学から考える』(岩波新書、2013年)
人は生涯を通じて成長し続けるという視点から、おとなの発達を論じた著作です。新しい役割への挑戦、他者との関わり、省察する力という三つの条件を示し、青年期から老年期まで、それぞれの時期にどのような成長が可能かを明らかにしています。親の成長が子どもの育ちに重要であることも示され、多くの読者に希望を与えています。
3. 『親の発達心理学 今、よい親とはなにか』(岩波書店、1995年)
「親も育つ」という画期的な視点を提示した代表作です。親になることで、人は責任感を持ち、忍耐力を身につけ、視野を広げていきます。子育ては親子が相互に影響し合いながら共に成長していく過程であることを、科学的に明らかにしました。完璧な親を目指すのではなく、子どもと一緒に成長していけばいいという視点は、多くの親を救いました。
4. 『親と子の愛情と戦略』(講談社現代新書、2011年)
親子関係を進化心理学の視点から分析した意欲作です。親の愛情は無償のものではなく、子孫を残すという生物学的な戦略でもある。この冷徹な視点と温かな家族観を両立させた内容は、親子関係の新しい理解を提供してくれます。なぜ親は子を愛するのか、なぜ子は親に反抗するのか。そうした疑問に科学的に答えた一冊です。
5. 『家族心理学 社会変動・発達・ジェンダーの視点』(東京大学出版会、2003年)
家族心理学の理論と実践を包括的に論じた専門書です。社会変動、発達、ジェンダーという三つの視点から、現代の家族が直面する課題を分析しています。歴史人口学、文化人類学、家族社会史など広い知見を背景に、変動する社会における家族の在り方を問うた重要な著作です。
まとめ 生涯成長という希望
柏木惠子氏の人生と研究は、人間は生涯を通じて成長し続けるという希望に満ちたメッセージを私たちに届けてくれます。「親も育つ」という視点は、完璧を求めて苦しむ親たちに、大きな勇気を与えました。
2026年現在、私たちは家族の在り方が大きく変化する時代を生きています。共働き家庭の増加、父親の育児参加、多様な家族形態の出現。柏木氏が長年研究してきた「変動する社会と家族」というテーマは、まさに現代の私たちが直面している課題です。
子どもだけでなく、親も、そしておとなも、生涯を通じて成長し続ける。新しい役割に挑戦し、他者と関わり、自分を省察することで、人はいくつになっても変化できる。この視点は、年齢を重ねることへの不安を希望に変えてくれます。
日米文化比較から見えた日本の家族の特徴、ジェンダー問題への鋭い指摘、歴史的視点を踏まえた家族論。柏木氏の研究は、多角的で深い洞察に満ちています。瑞宝中綬章の受章、日本学術会議会員、日本発達心理学会理事長。その功績は、日本の心理学界において極めて大きなものです。
「子どもが育つ条件」と「おとなが育つ条件」。柏木惠子氏が示してくれた、この二つの視点を胸に、私たちも家族とともに、社会とともに、生涯にわたって成長し続けていきたいものです。
発達は子ども時代で終わるものではありません。人生のどの段階にいても、私たちは成長できる。その希望を、柏木氏の研究は科学的に裏付けてくれているのです。
ここまで、時間を分けてくださり、ありがとうございます。
もし、まだ少しだけ余白が残っているなら。
もうひとつの視点を。
いづれかの言葉が、ゆっくり馴染みますように。
それぞれの一日を。



