愛とは何か。それを最も切実に問われるのは、失う瞬間かもしれない。十五年連れ添った夫婦が迎えた別れの危機。同じ部屋で、同じ時間を過ごしながらも、二人の心に映る風景は全く違っていた。
彼の視点
彼女が荷物をまとめ始めたのは、雨の降る木曜日の夕方だった。
十五年間共に過ごした部屋で、彼女は静かに衣服を段ボール箱に詰めていく。彼はソファに座り、テレビのニュースを見るふりをしながら、その音を聞いていた。クローゼットから衣装ケースを引きずり出す音、引き出しを開け閉めする音、そして時折聞こえる小さなため息。
「話し合おう」
彼がようやく口を開いた時、彼女の手は止まった。しかし振り返ることはしなかった。
「もう遅いの」
彼女の声は疲れ切っていた。彼は初めて気づく。いつの間にか、彼女はこれほどまでに疲れていたのだということに。仕事に追われる日々の中で、彼は彼女の変化を見過ごしていた。いや、見ようとしなかったのかもしれない。
「俺が悪かった」
ありふれた言葉だった。でも他に何と言えばいいのかわからなかった。彼女は苦笑いを浮かべる。
「悪いとか良いとかの問題じゃないの。私たち、もうすれ違ってばかりで…」
その時、彼女の手からマグカップが滑り落ちた。二人で選んだお気に入りのペアカップの片方が、床で音を立てて割れる。彼女はその破片を見つめて、突然泣き始めた。
彼は慌てて立ち上がり、彼女の肩に手を置こうとした。しかし彼女は首を振る。
「触らないで」
その拒絶に、彼の胸に何かが突き刺さった。これまで感じたことのない、鋭い痛み。彼は理解する。失うということの重さを。彼女がいない生活など、考えたこともなかった。朝のコーヒーを一緒に飲むこと、些細な出来事を報告し合うこと、眠る前の他愛もない会話。それらすべてが、明日からなくなってしまうのだ。
「お願いだ」
彼の声は震えていた。
「もう一度、やり直させてくれ」
彼女は割れたカップの破片を拾い集めながら答える。
「何度も同じことを繰り返してきたじゃない」
確かにその通りだった。些細な喧嘩、仲直り、そしてまた同じことの繰り返し。しかし今日、この瞬間まで、彼は本当の意味で彼女を失う恐怖を知らなかった。
彼は膝をついて、彼女と同じ目線で破片を拾い始めた。二人の手が触れ合った時、彼女の手の冷たさに驚く。いつからこんなに冷たい手になってしまったのだろう。
「寒かったんだな」
彼は呟いた。彼女の手を包み込むように握りしめる。今度は彼女も手を引こうとしなかった。
「ずっと寒かった」
彼女の涙が彼の手に落ちる。彼は初めて理解した。愛するということは、相手の寒さを感じ取ることなのだと。相手の疲れに気づくことなのだと。そして何より、失う恐怖を通じて、その存在の大切さを知ることなのだと。
外では雨が強くなっていた。しかし部屋の中で、二人は割れたカップの破片を拾い集めながら、静かに話し続けた。十五年間で一番長い夜になるかもしれない。でも彼にはわかっていた。この夜を越えることができれば、明日からは本当の意味で彼女を愛することができるのだということが。
段ボール箱は、そのまま部屋の隅に置かれたままだった。
彼女の視点
荷物をまとめながら、彼女は何度も手を止めた。
この服は初めてのデートで着たもの。このアクセサリーは結婚記念日にもらったもの。一つ一つに思い出が詰まっている。それらを段ボール箱に入れることは、十五年という歳月に区切りをつけることでもあった。
彼はソファでテレビを見ている。いつものように。彼女がこれほど苦しんでいることにも気づかずに。もう何ヶ月も前から、彼女は決意を固めていた。しかし実際に荷造りを始めると、胸が締め付けられるように痛んだ。
「話し合おう」
彼の声が聞こえた。今更、と彼女は思う。これまで何度話し合おうとしても、彼は仕事を理由に逃げてばかりいた。
「もう遅いの」
自分の声が思っていたより冷たく響くことに驚く。本当はまだ迷っているのに。本当はまだ愛しているのに。
「俺が悪かった」
彼のいつもの言葉だった。謝ればそれで済むと思っている。彼女は苦笑いを浮かべる。悪いとか良いとかの問題ではないのだ。二人の間に横たわる深い溝は、謝罪だけでは埋まらない。
「悪いとか良いとかの問題じゃないの。私たち、もうすれ違ってばかりで…」
その時、手が滑った。思い出のマグカップが床に落ちて割れる。二人で選んだペアカップ。まだ新婚の頃、一緒に雑貨店を回って見つけた宝物だった。割れた破片を見つめていると、涙があふれた。これまでこらえていた感情が、一気にあふれ出してくる。
彼が近づいてくる気配を感じた。しかし今触れられたら、きっと決心が揺らいでしまう。
「触らないで」
拒絶の言葉を口にしながら、彼女は自分の冷酷さに震えた。彼の傷ついた表情が見えなくても、その痛みは伝わってきた。でも、これ以上傷つけ合うのは嫌だった。
「お願いだ。もう一度、やり直させてくれ」
彼の声は震えていた。こんなに必死な彼を見るのは久しぶりだった。でも、と彼女は思う。
「何度も同じことを繰り返してきたじゃない」
本当にその通りだった。仲直りして、また同じことを繰り返して。彼女はもう疲れ切っていた。一人で戦い続けることに。
彼が膝をついて、一緒に破片を拾い始めた。久しぶりに同じ目線で向き合っている。彼の手が自分の手に触れた時、彼女は気づく。自分の手がこんなにも冷たくなっていることに。
「寒かったんだな」
彼が呟いた。その優しい声に、彼女の涙腺が再び緩む。そう、ずっと寒かった。一人でいるような寂しさの中で、ずっと震えていた。
「ずっと寒かった」
彼女が呟いた時、彼の手が自分の手を包み込んだ。今度は拒まなかった。この温かさを、どれほど求めていたことだろう。
彼女は理解した。愛するということは、相手に自分の寒さを伝えることでもあるのだと。一人で抱え込まずに、弱さを見せることでもあるのだと。そして、相手もまた同じように愛を学び直そうとしていることを受け入れることでもあるのだと。
雨音が部屋に響いている。長い夜になりそうだった。でも彼女には分かっていた。この夜を二人で越えることができれば、明日からはきっと本当の意味で愛し合えるのだということが。
段ボール箱の中身を、もう一度クローゼットに戻すかもしれない。

