愛することと愛されることは、同じ感情の表と裏のように見えて、実は全く異なる体験なのかもしれない。一方は能動的で、もう一方は受動的。一方は与える行為で、もう一方は受け取る状態。しかし、その違いを最も鮮明に理解できるのは、両方を同時に体験できない瞬間なのだろう。
彼女は毎朝五時半に起きる。夫と息子のために弁当を作るためだ。二十三年間、一日も欠かしたことがない。メニューを考え、食材を買い、前夜に下ごしらえをして、朝早く起きて丁寧に詰める。栄養バランスを考え、彩りを工夫し、時には小さな手紙を忍ばせることもある。
夫は毎朝その弁当を受け取り「ありがとう」と言って出かけていく。息子は高校生になってからは無言で弁当を鞄に詰め込み、扉を勢いよく閉めて出ていく。彼女はそれを見送りながら、空になった弁当箱を洗い、また明日の支度を考える。
これが愛することの形だった。相手の健康を気遣い、喜ぶ顔を想像し、少しでも良いものをと願う気持ち。見返りを求めるわけではないが、ただ相手に愛を注ぎ続ける日々。愛することは、こうして毎日の小さな行為に宿っていた。
ある日、彼女が風邪で寝込んだ。高熱でふらつき、とても弁当を作れる状態ではなかった。夫は「今日はコンビニ弁当でいいから」と言って出かけていく。息子は舌打ちをして「作れないなら昨日のうちに言ってよ」と不機嫌そうに呟いた。
その時、息子は初めて気づいた。毎朝当たり前のように鞄に入っていた弁当が、どれほど特別なものだったかということに。コンビニで弁当を買いながら、母の手作りの味を思い出す。いつも嫌いだった卵焼きが、なぜか恋しくなった。栄養バランスを考えた野菜の組み合わせが、どれほど丁寧に選ばれていたかを理解した。
夕方、息子は薬局で風邪薬を買って帰った。母の部屋を覗くと、まだ熱で苦しそうにしている。彼は初めて、愛されることの重さを実感した。二十三年間、毎朝五時半に起きてくれていたということ。一度も「面倒だ」と言わなかったということ。それがどれほど大きな愛情だったかということ。
愛することは、与え続けることだ。相手のことを思い、行動し、時には自分を犠牲にしてでも相手の幸せを願う。それは能動的で、意志的で、時に疲れを伴う行為でもある。
愛されることは、その愛を受け取ることだ。しかし多くの場合、私たちは愛されていることに気づかない。日常に溶け込み、空気のように当たり前になった愛情を、失って初めて認識する。愛されることの幸福は、しばしば後になってから実感されるものなのだ。
息子が薬を差し出した時、母は微笑んだ。「ありがとう」と小さく呟く声に、彼は自分もまた愛することを学んでいることを知った。愛することと愛されることは、決して一方通行ではない。愛を受け取った人は、いつかその愛を別の形で返していく。そうして愛は循環し、人と人との間を流れ続けている。
翌朝、彼女の熱は下がっていた。息子は自分でおにぎりを作り、母の分も作って枕元に置いた。不格好なおにぎりだったが、母はそれを見て涙ぐんだ。愛することを覚えた息子の、最初の贈り物だった。
愛することと愛されること。その違いを知ることで、私たちは愛の本当の豊かさを理解できるのかもしれない。
私たちは日々、どれほどの愛に気づかずに過ごしているのだろう。もし明日、その愛が失われるとしたら、今この瞬間から、私たちは何を違って見るのだろうか。

