あなたは「インテリジェンス」という言葉を聞いて、何を思い浮かべますか。映画のスパイのような華やかな世界を想像するかもしれません。しかし、現実の諜報活動は、私たちが想像するよりもはるかに地道で、そして国家の命運を左右する重要な仕事なのです。元自衛官の軍事ジャーナリスト・黒井文太郎が著した『日本人が知らない世界のインテリジェンス』は、CIA、MI6、モサドなど世界の情報機関の実態を平易に解説し、なぜ日本にスパイ防止法がないのかという深刻な問題にも切り込んだ一冊です。2025年、自民党が国家情報局創設やスパイ防止法制定に向けて動き出す今、この本が示す情報分析と防諜の重要性は、すべての日本人が知るべき国家安全保障の基礎知識と言えるでしょう。
書籍の基本情報
書籍名:『日本人が知らない世界のインテリジェンス』
著者:黒井文太郎
出版社:扶桑社新書
初版発行:2019年
ページ数:約280ページ
価格:900円前後(税別)
黒井文太郎は1963年生まれ、元自衛官で軍事ジャーナリスト。世界各国の紛争地を取材し、情報機関の活動について詳しく研究してきた第一人者です。本書は専門的な知識を持たない一般読者にも理解できるよう、わかりやすい言葉で世界のインテリジェンスの実態を伝える入門書として書かれました。

インテリジェンスとは何か基礎から理解する
本書の冒頭で黒井は、インテリジェンスと単なる情報(インフォメーション)の違いを丁寧に説明します。インフォメーションは誰でも入手できる生の情報ですが、インテリジェンスはそれを収集・分析・評価して、政策決定者が判断を下すために使える形に加工した情報のことです。
たとえば、新聞記事やインターネットの情報は誰でもアクセスできるインフォメーションです。しかし、それらを組み合わせて「敵国が3ヶ月以内に軍事行動を起こす可能性が高い」と分析すれば、それはインテリジェンスになります。この違いを理解することが、情報戦の世界を知る第一歩なのです。
また、諜報活動には「諜報」と「防諜」の2つの側面があると黒井は説きます。諜報は外国の秘密情報を積極的に入手する攻めの活動、防諜は自国の情報を守り、敵のスパイを摘発する守りの活動です。サッカーに例えれば、諜報がオフェンス、防諜がディフェンス。どちらか一方だけでは国家は守れないのです。
読んでいて驚かされるのは、諜報活動の9割以上がOSINT(公開情報収集)だという事実です。スパイ映画のような派手な活動ではなく、新聞、雑誌、インターネット、公的文書などから地道に情報を集め、分析する。この地味な作業こそが、インテリジェンスの基盤なのだと理解できます。
世界の情報機関CIA MI6 モサドの実態
黒井は本書の中心部分で、世界の主要な情報機関の組織と活動を具体的に紹介します。まずアメリカのCIA(中央情報局)。予算規模、人員、技術力のすべてにおいて世界最強の情報機関です。ただし、CIAは対外諜報を担当し、国内の防諜はFBI(連邦捜査局)が担当するという明確な役割分担があります。
イギリスのMI6(秘密情報部)とMI5(保安局)も同様の構造です。MI6が海外での諜報活動、MI5が国内での防諜活動を担当。この分業体制により、権限の濫用を防ぎながら、効率的な情報収集を実現しているのです。
特に興味深いのは、イスラエルのモサドについての記述です。小国でありながら、周辺をすべて敵国に囲まれたイスラエルにとって、インテリジェンスは文字通り生存戦略です。モサドの工作員は世界中に展開し、テロリストの暗殺、核開発の妨害、情報源の獲得など、あらゆる手段を駆使します。
黒井が繰り返し強調するのは、これらの国々では情報機関が「国家の目と耳」として機能しているということです。政治指導者は、情報機関が提供するインテリジェンスに基づいて重要な決断を下します。つまり、優れたインテリジェンスなしに国家戦略は成り立たないのです。
読んでいて感じるのは、黒井の冷静で客観的な視点です。情報機関を美化することも、悪魔化することもなく、その機能と必要性を淡々と説明する。この誠実な姿勢が、本書の信頼性を高めています。
日本がスパイ天国と呼ばれる理由
本書の最も衝撃的な部分が、日本の情報防衛体制の脆弱性についての指摘です。黒井は「日本はスパイ天国」という厳しい現実を突きつけます。その最大の理由は、日本にスパイ防止法がないことです。
スパイ防止法とは、外国の諜報機関による情報窃取や工作活動を取り締まる法律です。先進国のほとんどが持っているこの法律を、日本だけが持っていません。その結果、中国、ロシア、北朝鮮などの工作員が、ほぼ自由に日本国内で活動できる状況が生まれているのです。
たとえば、他国ではスパイ容疑で自国の情報要員が逮捕された場合、相手国のスパイを逮捕して交換することができます。しかし日本にはスパイ防止法がないため、この交渉カードを持てません。結果として、日本の情報要員が海外で逮捕されても、助ける手段がないという深刻な事態になっているのです。
また、日本には本格的な対外情報機関もありません。内閣情報調査室、公安調査庁、警察庁警備局、防衛省情報本部など複数の組織が存在しますが、いずれも権限や予算が限定的で、CIAのような総合的な情報収集能力を持っていません。
黒井は決して日本を責めるトーンではなく、むしろ心配する父親のような温かさで、この危機的状況を国民に知ってほしいと訴えます。情報戦で負け続けているのに、多くの日本人がその事実すら知らない。この認識のギャップこそが、最大の問題なのだと。

情報分析の失敗が招いた歴史の教訓
黒井は本書で、インテリジェンスの失敗が歴史をどう変えたかという重要なテーマにも触れています。最も有名な例が、真珠湾攻撃です。日本はアメリカを奇襲したつもりでしたが、実はアメリカは日本の暗号を解読しており、攻撃の兆候を察知していました。
しかし、情報の分析と伝達に失敗したため、現場への警告が間に合わなかった。逆に日本側は、アメリカが暗号解読に成功していることに気づかず、その後も同じ暗号を使い続けました。この情報戦の敗北が、太平洋戦争の帰趨を決定づけたと言っても過言ではありません。
また、2022年のロシアによるウクライナ侵攻についても興味深い分析があります。アメリカは侵攻の3ヶ月前から、衛星画像や通信傍受によってロシア軍の動きを把握し、世界に警告していました。これこそが現代のインテリジェンスの力なのです。
黒井が強調するのは、「知らなければ対応しようがない」という単純だが重要な真理です。どんなに軍事力があっても、情報がなければ適切な判断はできません。逆に、情報さえあれば、小国でも大国に対抗できる可能性が生まれます。
この章を読むと、歴史は単なる軍事力の対決ではなく、情報戦の勝敗でもあったことが理解できます。そして、その教訓が現代にも生きていることを、私たちは肝に銘じるべきなのです。
現代社会での応用と実践を考える
『日本人が知らない世界のインテリジェンス』が示す知識は、国家レベルだけでなく、私たち個人の生活にも応用できます。
まず、情報リテラシーの向上です。インフォメーションとインテリジェンスの違いを理解することで、日々接するニュースや情報の見方が変わります。誰が、なぜ、その情報を発信しているのか。背後にどんな意図があるのか。こうした批判的思考は、フェイクニュースやプロパガンダに惑わされないために不可欠です。
ビジネスの世界でも、インテリジェンスの考え方は有効です。競合他社の動向を把握し、市場の変化を予測する。これはまさに企業におけるインテリジェンス活動です。公開情報を丁寧に収集・分析するOSINTの手法は、マーケティングや経営戦略に直接応用できます。
また、個人の安全保障という観点も重要です。海外旅行や海外赴任の際、現地の治安情報を正しく把握すること。SNSでの情報発信が、意図せず自分や家族を危険にさらす可能性があること。こうしたデジタル時代のセキュリティ意識も、広義のインテリジェンスと言えるでしょう。
そして何より、有権者として国家安全保障政策に関心を持つこと。2025年、自民党がインテリジェンス戦略本部を立ち上げ、国家情報局創設とスパイ防止法制定に向けて動き始めました。これらの政策が本当に日本の安全を守るのか、それとも行き過ぎた監視社会につながるのか。国民一人一人が判断する材料として、本書のような知識が必要なのです。
どんな方に読んでもらいたいか
この本は、まず国際情勢や安全保障に興味がある方すべてにお勧めしたい一冊です。ニュースで報じられる国際問題の裏側に、どんな情報戦が展開されているのか。その実態を知ることで、世界の見方が一変します。
ビジネスパーソン、特に海外と関わる仕事をしている方にも強く推奨します。情報収集と分析の手法は、ビジネスにも直接応用できます。また、海外出張や駐在の際の危機管理にも役立つ知識が満載です。
学生の皆さん、これから社会に出る若い世代にもぜひ読んでいただきたいです。グローバル化が進む現代、国際感覚と情報リテラシーは必須のスキルです。本書は、その基礎を学ぶ最良の教材となるでしょう。
政治や社会問題に関心がある方、有権者として判断力を高めたい方にもお勧めです。スパイ防止法や国家情報局創設といった政策について、賛成・反対を判断する前に、まず基礎知識を持つことが重要です。本書はその土台を提供してくれます。
そして何より、日本の将来を心配するすべての方に読んでほしい。情報戦で負け続けている日本の現状を知り、何が必要なのかを一緒に考える。その第一歩として、本書は誰にでも開かれた入り口なのです。
関連書籍5冊紹介
1. 『インテリジェンス 武器なき戦争』手嶋龍一・佐藤優著
元NHKワシントン支局長と元外務省主任分析官による白熱対談。9.11テロ、イラク戦争、北朝鮮問題など具体的事例を通じて、現代の情報戦争の実態を解き明かします。
2. 『日本にスパイ防止法がない理由』江崎道朗著
なぜ日本だけがスパイ防止法を持たないのか。戦後の政治史を紐解きながら、左派勢力の反対運動、メディアの偏向報道、そして国民の無関心が生んだ安全保障の空白を明らかにします。
3. 『インテリジェンス入門』北岡元著
元公安調査庁長官による本格的インテリジェンス入門書。情報と諜報の違い、ヒューミント(人的情報)とシギント(信号情報)の特性など、実務経験に基づいた解説が光ります。
4. 『目に見えぬ侵略―中国のオーストラリア支配計画』クライブ・ハミルトン著
中国共産党による組織的な影響力工作を告発。政治献金、大学への浸透、メディア買収など、民主主義国家を内部から侵食する手法を詳述。日本にも同様の工作が行われている可能性を示唆します。
5. 『サイバー戦争の今』伊東寛著
元自衛官のサイバーセキュリティ専門家が、サイバー空間での諜報戦・攻撃の実態を解説。国家支援型ハッカー集団、APT攻撃など、目に見えない戦場で繰り広げられる情報戦争の最前線をレポートします。
まとめ
『日本人が知らない世界のインテリジェンス』は、私たちが普段意識することのない情報戦の世界を、わかりやすく、そして温かい語り口で教えてくれる一冊です。黒井文太郎が伝えたいのは、恐怖心を煽ることではなく、むしろ「知ることで守れる」というメッセージです。世界中の国々が情報戦に真剣に取り組む中、日本だけが無防備であってはいけない。しかし、だからこそ冷静に、科学的に、この問題に向き合う必要があるのです。インテリジェンスは、決して特別な人だけのものではありません。国民一人一人が情報の大切さを理解し、自分の頭で考え、判断する。そんな成熟した民主主義社会を作るために、本書は重要な一歩となるはずです。静かな場所で、ゆっくりとページをめくってみてください。きっとあなたの世界の見方が変わることでしょう。


