「日本はスパイ天国だった」──元KGB少佐のスタニスラフ・レフチェンコがワシントンで語った言葉は、1982年の日本社会に衝撃を走らせました。『レフチェンコは証言する』は、週刊文春が米国に特別記者を派遣し、レフチェンコに約20時間の独占インタビューを実施した内容をまとめた記録です。
日本の政界、財界、マスコミに200人以上のエージェントを獲得した事実、逆情報の捏造、そして積極工作の全貌が、レフチェンコの肉声で明らかにされています。
2025年の今、ロシアの情報戦が世界を揺るがす中だからこそ、この事件の教訓は日本にとって切実です。
書籍の基本情報
書籍名: 『レフチェンコは証言する』
編者: 週刊文春編集部
出版社: 文藝春秋
出版年: 1983年
ページ数: 約250ページ
ジャンル: 国家安全保障論、政治ノンフィクション
レフチェンコの真実 なぜKGBは亡命者を語った
本書の最も興味深い点は、レフチェンコ自身の人物像を丁寧に描いていることです。モスクワ大学東洋学部で6年間日本語を学び、芥川龍之介の小説に心酔した文学的な感性を持つ男が、なぜKGBに入り、なぜ亡命したのか。著者たちの鋭い質問に対し、レフチェンコは辛抱強く、できる限り正確に答え続けます。
記者たちは当初、「脚色された誇大の情報で信用できない」という日本国内の反応を踏まえて、懐疑的な視点から突っ込んだ質問を重ねていきます。しかし読み進めると、レフチェンコの回答の論理整合性と真摯さが徐々に伝わってくるのです。「なぜ実名を明かさなかったか」という質問に対し、「過去のラストボロフ事件でも必ず誰かが自殺している。エージェントの多くに深い敬意を感じるので、必要以上に彼らの名前を出したくない」と答えたレフチェンコの言葉には、スパイとして長年エージェントと信頼関係を築いてきた人間としての複雑な心境が見えます。
本書を読んで「わかる!」と感じるのは、レフチェンコが「スパイ」という言葉を一切使わないこと。彼はKGBの文化の中で育ち、その使命を「国家への奉仕」と捉えていたのです。しかし、アフガニスタン侵攻など、ソ連の行動が世界への破壊であることを目撃した中で、信念が崩れていき、最終的に亡命を決意した…。この人間ドラマが、本書を単なる諜報書ではなく、一人の人間が国家と自分の양conscience の間で苦闘した記録にしています。
積極工作とエージェント網 200人の協力者の実態
本書の核心は、レフチェンコが遂行した**積極工作(アクティブメジャーズ)**の詳細です。積極工作とは、単なる情報収集にとどまらず、対象国の世論や政策を自国に有利なものに誘導する謀略活動のことです。レフチェンコは1975年から1979年の約4年間、表向きはソ連の週刊誌『ノーボエ・ブレーミャ』の東京特派員として活動しながら、この積極工作を推進していました。
最も衝撃的なのが、エージェント網の規模です。レフチェンコは少なくとも200人の日本人エージェントが存在していたと証言しました。エージェントは「真の協力者」「信頼すべき人物」「友好的人物」「有用な白痴」という4種類に分類されており、政界、財界、学会、マスコミの各分野に浸透していたのです。
レフチェンコ自身は約10人のエージェントを直接操っており、その中の8名の実名を後にリーダーズダイジェストのインタビューで公開しました。社会党の国会議員や大手紙の幹部など、日本社会の影響力を持つ人物たちがコードネームで登場します。これらの人物たちは「事実無根」と強く否定しましたが、後に発見されたミトロヒン文書がレフチェンコの証言の信憑性を裏付けることになりました。
また、レフチェンコは**逆情報(ディスインフォメーション)**の捏造にも関わっていたと証言しています。中国の周恩来首相の死後に「遺言」とされる偽文書を捏造し、日本の新聞に掲載させた事例がその一つです。この手法は、現代のロシアによる偽情報工作と同じ本質を持っています。
スパイ防止法の不在と日本の脆弱性
本書が最も強く訴えるのは、スパイ防止法の不在による日本の法的空白です。レフチェンコは証言の中で明確に「日本にはスパイ防止法がないので、警察はほとんど何もできない」と語ります。スパイやエージェントの存在が確認されていても、それ自体が犯罪にならないため、逮捕や起訴は不可能だったのです。
この事実は、当時の日本社会に少し理解に苦しむほどの衝撃を与えました。「なぜ分かっていてでも何もできないのか」という疑問に対し、レフチェンコは「だから仕事がしやすかった」と率直に語っています。スパイ活動を直接取り締まる法規がない中で、警察が検挙できるのは、スパイ活動が別の現行刑罰法令に触れた場合に限られるのです。
レフチェンコ証言は政府内でも大きな騒動を引き起こしました。後藤田正晴官房長官が読売新聞の渡辺恒雄論説委員長に、エージェントリストの存在を示し「あなたの社の記者を解雇しろ」と詰め寄った事件は、政府とメディアの関係の複雑さを示す逸話として記録されています。
2025年の今も、日本にはスパイ防止法が存在しません。2013年に特定秘密保護法が制定され、情報保全の体制は強化されましたが、根本的な法的空白は埋まっていません。レフチェンコが40年前に指摘した問題が、今なも続いている…。本書を読むと、この現実の重さを改めて感じさせられます。
ここで一度、目と気持ちをゆるめてみてください
現代社会での応用と実践 逆情報対策としての情報リテラシー
レフチェンコ事件は過去の出来事ではありません。2025年の今、ロシアによる逆情報工作は、インターネットやSNSを通じてさらに巧妙化しています。ウクライナ戦争をめぐる偽情報の拡散、米国大統領選への介入疑惑、日本国内のSNS上での世論操作…。これらは本質的に、レフチェンコが遂行した積極工作と同じ戦略の現代版です。
本書から私たちが学べるのは、まず情報の出所を疑うことです。「誰がこの情報を流しているのか」「なぜ今これが広がっているのか」という視点を常に持つことが、逆情報に騙されないための基本です。次に、信頼できる複数の情報源を確認すること。そして、感情的な反応に駆られず、事実に基づいて判断すること。こうしたエージェントの手法を知っておくことで、現代の情報戦の中で自分を守れるようになります。
また、企業や組織レベルでも、レフチェンコ事件の教訓は生きています。「信頼すべき人物」や「友好的人物」という分類が示すように、スパイの協力者はすべて「悪徳の人」ではありません。信じていたcolleague や先輩が、気づかないまま情報を流していた事例も少なくありません。だからこそ、組織内での情報管理と、人間関係のリスク管理が不可欠なのです。
レフチェンコは証言の中で「日本人の認識不足は実にはなはだしい」と語っていました。40年が経った今も、その言葉はどこか当てはまるように感じます。しかし同時に、本書のような書籍を読み、「知る」ことから始めることで、私たちは少しずつでも賢くなることができます。
筆者の感想 この本が開く諜報の世界へのまなざし
『レフチェンコは証言する』を読んで、私が最も心に残ったのは、インタビューの掲載を決めた週刊文春の勇気です。当時、日本のメディアの多数派はレフチェンコの証言に懐疑的であり、朝日新聞は強く批判していました。しかし週刊文春は、独占インタビューを実施し、その内容を5週間にわたって連載し、さらに単行本として出版した。「文春砲」の原点の一つとして知られる事件です。
また、レフチェンコが「エージェントの多くに深い敬意を感じる」と語った言葉も印象的です。スパイと協力者の関係は、単純な支配と服従ではなく、人間関係の複雑さが絡み合うものだということが伝わってきます。この視点が、本書を一方的な告発書ではなく、インテリジェンスの世界の人間的な側面を見せてくれる作品にしています。
本書は、40年以上前の書籍ですが、インタネット時代の情報戦の原型として読む価値があります。レフチェンコが証言した「積極工作」の本質は何も変わっていません。ただ、その手段がテレビやラジオからSNSに移り、規模が何倍にも拡大しただけです。この書籍を読むことで、現代の情報環境を見る目が変わるはずです。
どんな方に読んでもらいたいか
この本は、国際政治や安全保障に関心がある老若男女にお勧めできますが、特に以下のような方には強く読んでいただきたいと思います。
- 情報戦やスパイ事件に興味がある方: レフチェンコの肉声を通じて、実際のスパイ活動がいかに組織的かつ巧みに遂行されているかが手に取るようにわかります。
- 現代のロシア情報戦を理解したい方: 積極工作やディスインフォメーションの本質を理解するためにも、その原点であるレフチェンコ事件は必知です。
- メディアリテラシーに関心がある方: 逆情報がどのように作られ、信頼できる人物や組織を通じて拡散されるかを知ることで、現代のフェイクニュースに対する免疫が身につきます。
- 政治や政策に関わる方: 政界や財界がいかに標的にされるかを知ることで、情報セキュリティの重要性が腹落ちします。
- ジャーナリスト や新聞・メディア関係者の方: 本書には、メディアがスパイ活動の道具にされた事例が詳細に描かれており、ジャーナリスムの倫理について深く考えるきっかけとなります。
本書は絶版になっtamil事件ですが、古書市場や図書館で入手できます。インタビューの記録としての第一次資料としての価値は、時を経たっても変わりません。
関連書籍5冊紹介
1. 『ミトロヒン文書 KGB・工作の近現代史』山内智恵子、江崎道朗著
1992年にKGBの機密档案を持って亡命したミトロヒンの文書をもとに、KGBの世界的な諜報活動を検証した名著。レフチェンコの証言の信憑性がミトロヒン文書によって裏付けられたことも記述されており、『レフチェンコは証言する』の「続編」ともいえる位置づけです。
2. 『今日のKGB 内側からの証言』ジョン・バロン著
レフチェンコの証言をもとに書かれた英語の名著の日本訳版。バロン記者がレフチェンコに独占インタビューを実施し、KGBの組織構造や世界的な諜報活動を詳細に解説しています。本書で登場するエージェントの多くがコードネームで紹介されており、参考資料としても価値があります。
3. 『インテリジェンス 国家・組織は情報をいかに扱うべきか』小谷賢著
インテリジェンス研究の教科書的名著。レフチェンコ事件のような積極工作やカウンターインテリジェンスの理論と実践を体系的に解説。『レフチェンコは証言する』の事例を、インテリジェンスの理論で読み解くためにも必読の一冊です。
4. 『私を通りすぎたスパイたち』佐々淳行著
元警視総監の佐々淳行氏が、ゾルゲ事件、ラストボロフ事件、レフチェンコ事件など、自身が関わった日本のスパイ事件の秘話を語った回想録。レフチェンコ事件を「捜査側」の視点から見ることができ、『レフチェンコは証言する』とは異なる角度で同じ事件を理解できます。
5. 『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』佐藤優著
元外務省主任分析官の衝撃的回想の一冊。レフチェンコ事件がKGBによる諜報活動の事例なのに対し、本書は日本側の情報活動と国策捜査の実態を描きます。スパイと被害者、情報と政治の関係を幅広く理解するためにも、レフチェンコ事件と対比して読むことをお勧めします。
まとめ 知ることが防衛の第一歩
『レフチェンコは証言する』は、私たちに重要な真実を伝えてくれます。スパイ活動は遠い世界の話ではなく、日本の政界・財界・マスコミの中に深く潜行していたという事実です。
レフチェンコが暴したKGBの積極工作、200人以上のエージェント網、**逆情報(ディスインフォメーション)**の捏造…。これらは冷戦時代の遺産にとどまらず、2025年のロシア情報戦の原型となっています。スパイ防止法の不在という問題も、40年後の今なも解決されていません。
しかし本書は、絶望を語るものではありません。レフチェンコの証言そのものが、「知ること」の力を示してくれます。彼が語った真実は、日本社会に大きな衝撃を与え、情報防衛の議論を促進した。今なも、本書を読む人々の中に「知る」という力が生まれ続けています。
現代の情報環境で自分を守るためにも、この書籍の教訓は切実です。複数の情報源を確認する習慣、逆情報の手法を知っておくこと、組織内での情報管理を意識すること…。
小さな一歩であっても、「知る」ことから始めることが、レフチェンコ事件が私たちに残した最大の教訓なのです。
ここまで、時間を分けてくださり、ありがとうございます。
もし、まだ少しだけ余白が残っているなら。
もうひとつの視点を。
いづれかの言葉が、ゆっくり馴染みますように。
それぞれの一日を。



