2022年2月、ロシアがウクライナに全面侵攻したとき、日本のメディアが殺到した若手研究者がいました。東京大学先端科学技術研究センター准教授の小泉悠です。
ロシアの軍事・安全保障政策を専門とする小泉は、侵攻の数ヶ月前から衛星画像やSNS情報を分析し、「軍事介入は十分あり得る」と警告していました。多くの専門家が「まさかロシアは攻めないだろう」と楽観視する中、小泉だけがロシア軍の動きの異常さを見抜いていたのです。
以来3年、テレビ、新聞、雑誌で引っ張りだこの小泉は、難解なロシア軍事を分かりやすく解説し続けています。『ウクライナ戦争』『現代ロシアの軍事戦略』など数々の著作を持ち、サントリー学芸賞も受賞。1982年生まれ、42歳。若くして日本のロシア軍事研究を牽引する小泉悠とは、何者なのでしょうか。
著者の基本情報
小泉悠(こいずみ・ゆう)
- 生年:1982年
- 学歴:早稲田大学大学院政治学研究科修了(政治学修士)
- 経歴:民間企業勤務、外務省国際情報統括官組織専門分析員(2009年)、未来工学研究所研究員(2009-2019年、2017年より特別研究員)、ロシア科学アカデミー世界経済国際関係研究所客員研究員(2010-2011年、外務省若手研究者派遣フェローシップ)、国立国会図書館調査及び立法考査局非常勤調査員(2011-2018年)、東京大学先端科学技術研究センター特任助教(2019年)、同専任講師(2022年)
- 現職:東京大学先端科学技術研究センター准教授(2023年〜)、笹川平和財団上席フェロー(兼任)
- 専門:ロシア・旧ソ連諸国の軍事・安全保障政策、国際安全保障論
- 受賞:サントリー学芸賞社会風俗部門(2019年、『「帝国」ロシアの地政学』)、戦略研究学会研究奨励賞(2021年)
- 主な著書:『ロシア軍は生まれ変われるか』『軍事大国ロシア』『プーチンの国家戦略』『「帝国」ロシアの地政学』『現代ロシアの軍事戦略』『ウクライナ戦争』『オホーツク核要塞』『サイバースペースの地政学』
小泉悠は早稲田大学大学院で政治学を学んだ後、外務省専門分析員としてロシア研究を開始。未来工学研究所でロシア軍事の分析に従事しながら、ロシア科学アカデミーに留学し、現地の空気を肌で感じました。国会図書館でロシアの立法動向を調査する傍ら、膨大な文献を読破。2019年、東京大学に移り、研究と教育の両立に取り組んでいます。
ウクライナ侵攻を予見 衛星画像とSNSが明かした真実
小泉悠の名を一躍有名にしたのが、ウクライナ侵攻の予見でした。2021年末から2022年初頭にかけて、ロシア軍が通常とは異なる動きを見せていることを、小泉は鋭く指摘しました。衛星画像を見れば、極東やシベリアの部隊が遠くベラルーシまで移動していることが分かります。TikTokに投稿された動画を集めれば、どの部隊がいつ、どこを通ったかが把握できます。
小泉はロシア軍の大演習を15年以上観察してきました。しかし、これほど大規模な兵力移動は見たことがありませんでした。「これは演習ではない。本気だ」。小泉の警告は、残念ながら的中しました。2022年2月24日、ロシアはウクライナに全面侵攻。多くの専門家が予測を外す中、小泉だけが正確に状況を読んでいたのです。
侵攻後、小泉はメディアからの取材が殺到しました。テレビ、新聞、雑誌。毎日のように解説を求められました。なぜ小泉の分析は的中したのか。それは、現場主義とデータ主義の両立にあります。ロシアに留学して現地の雰囲気を知り、同時に衛星画像やSNSという客観的データも重視する。この二つのアプローチが、小泉の強みです。
小泉が書いた『ウクライナ戦争』(ちくま新書、2022年)は、侵攻開始から数ヶ月の出来事を同時代的に記録した貴重な文献です。「歴史」になるまで待てなかった。ロシア軍事研究者として、この巨大な戦争を記録しなければならない。その使命感が、小泉を駆り立てたのです。
私は、小泉の解説を聞くたびに「そういうことか」と納得します。複雑な軍事情勢を、分かりやすい言葉で説明する能力。それが、小泉が多くの人々に支持される理由でしょう。
クラウゼヴィッツ型戦争の復活 消耗戦という現実
小泉悠が強調するのは、ウクライナ戦争が**「クラウゼヴィッツ型の戦争」**だということです。クラウゼヴィッツは19世紀プロイセンの軍事思想家で、『戦争論』の著者です。彼が描いた戦争は、①政治目的を追求する政府、②巨大な常備軍、③戦争を支持する国民、という三位一体で成り立っています。
21世紀に入り、戦争は変化したと言われてきました。ハイテク兵器、ドローン、サイバー攻撃。少数精鋭の特殊部隊が、スマートに敵を倒す。そんなイメージでした。しかしウクライナ戦争は違います。大規模な軍隊が動員され、塹壕を掘り、砲撃を続ける。まるで第一次世界大戦のような消耗戦が繰り広げられているのです。
小泉は言います。「古い戦争はまだ死んでいない」。ハイテク兵器も使われますが、結局は人間の数、砲弾の数が勝敗を決めます。ロシアとウクライナ、双方が総動員体制を敷き、100万人規模の兵力を投入しています。こんな大規模な戦争は、朝鮮戦争以来70年ぶりです。
この認識は重要です。なぜなら、同じことが東アジアでも起こりうるからです。台湾有事、朝鮮半島有事。もし戦争が起きれば、それはハイテク戦争ではなく、消耗戦になるかもしれません。日本は、その覚悟ができているでしょうか。小泉の分析は、日本の安全保障政策にも警鐘を鳴らしているのです。
ロシア帝国の地政学 勢力圏という思想
小泉悠の代表作の一つが、『「帝国」ロシアの地政学』(東京堂出版、2019年、サントリー学芸賞)です。この本で小泉が示すのは、ロシアが依然として**「帝国」としての思考**を持ち続けているという事実です。
ロシアは、旧ソ連諸国を自国の「勢力圏」と見なしています。ウクライナ、ベラルーシ、カザフスタン、ジョージア。これらの国々は主権国家ですが、ロシアから見れば「特別な関係」にある地域です。だから、これらの国が西側に接近することを、ロシアは許容できません。ウクライナのNATO加盟志向が、ロシアを刺激したのです。
小泉は、ロシアの地政学的思考を丁寧に解き明かします。ハートランド理論、ユーラシア主義、近い外国政策。こうした概念を理解しないと、ロシアの行動は理解できません。ロシアは単なる侵略国家ではなく、独自の論理で動いているのです。
もちろん、その論理が正しいとは限りません。主権国家の独立を侵す行為は、国際法違反です。しかし、敵を理解することは、敵と戦うための第一歩です。ロシアの論理を知ることで、どう対処すべきかが見えてきます。小泉の研究は、そのための智慧を提供してくれるのです。
オホーツク核要塞とサイバー空間 新しい戦場の研究
小泉悠の研究領域は、陸海空だけではありません。近年は、新しい戦場にも注目しています。2024年に出版された『オホーツク核要塞』(朝日新聞出版)では、オホーツク海におけるロシアの核戦略を衛星画像で分析しました。ロシアの戦略原潜は、オホーツク海を「聖域」として、そこから核ミサイルを発射する態勢を取っています。この事実を、小泉は衛星画像という視覚的証拠で示したのです。
同じく2024年の『サイバースペースの地政学』(早川書房)では、サイバー空間という見えない戦場を分析しました。ロシアはサイバー攻撃の先進国です。ウクライナの電力網を破壊し、西側諸国の選挙に介入し、偽情報を拡散する。こうしたサイバー戦争の実態を、小泉は明らかにしました。
小泉の強みは、常に最新のテーマに挑戦する姿勢です。伝統的な軍事だけでなく、宇宙、サイバー、情報戦。戦争の形態が変化する中で、小泉も進化し続けています。その知的好奇心と探求心が、小泉を第一線の研究者たらしめているのです。
ここで少し視線を休めてみてください
現代への教訓 戦争は他人事ではない
小泉悠の研究から、私たちは何を学べるでしょうか。第一に、現実を直視する勇気です。多くの人が「まさか戦争は起きない」と楽観していました。しかし小泉は、冷静にデータを見て、最悪のシナリオを想定しました。希望的観測ではなく、事実に基づいて判断する。その姿勢が、正確な予測につながったのです。
第二に、情報リテラシーの重要性です。小泉は衛星画像やSNS投稿を駆使して分析しました。現代では、誰でもオープンソースの情報にアクセスできます。それをどう読み解くか。情報を見る目を養うことが、現代人に求められています。
第三に、専門性の価値です。小泉は15年以上、ロシア軍事を研究してきました。一つの分野を深く掘り下げることで、誰にも負けない知見が得られます。広く浅くではなく、狭く深く。それが専門家への道です。
第四に、歴史から学ぶ姿勢です。クラウゼヴィッツの『戦争論』は200年前の本ですが、今も有効です。過去の智慧を現代に活かす。温故知新の精神が、小泉の研究を支えています。
第五に、日本への警鐘です。ウクライナで起きていることは、東アジアでも起こりうる。台湾有事、尖閣問題。日本は安全保障を真剣に考えなければなりません。小泉の研究は、その道標となるのです。
私は小泉の著作を読んで、戦争は他人事ではないと痛感しました。遠い国の出来事ではなく、日本にも関わる問題です。平和を守るには、現実を知り、備えることが必要です。
代表書籍5冊紹介
1. 『ウクライナ戦争』(ちくま新書、2022年)
ロシアのウクライナ侵攻を同時代的に記録した貴重な文献。侵攻開始から数ヶ月の出来事を、ロシア軍事の専門家が冷静に分析。なぜ戦争は起きたのか、どう展開しているのか。歴史の証人としての使命感が込められた一冊。
2. 『「帝国」ロシアの地政学』(東京堂出版、2019年)
サントリー学芸賞受賞作。ロシアが旧ソ連諸国を「勢力圏」と見なす帝国的思考を解き明かす。ウクライナ侵攻の遠因がここにある。ロシアの論理を理解するための必読書。
3. 『現代ロシアの軍事戦略』(ちくま新書、2021年)
ロシア軍の戦略、組織、装備、演習を包括的に解説。プーチン政権下での軍改革、核戦略、ハイブリッド戦争。ロシア軍事の全体像が分かる決定版テキスト。
4. 『オホーツク核要塞』(朝日新聞出版、2024年)
衛星画像を駆使して、オホーツク海におけるロシアの核戦略を分析。戦略原潜の聖域、極東の軍事拠点。視覚的証拠に基づく最新の研究成果。
5. 『サイバースペースの地政学』(早川書房、2024年)
サイバー空間という新しい戦場を分析。ロシアのサイバー攻撃、偽情報戦、選挙介入。見えない戦争の実態を明らかにした意欲作。
まとめ 冷静な分析が未来を守る
小泉悠は、42歳にして日本のロシア軍事研究を牽引する若き第一人者です。ウクライナ侵攻を予見し、戦争の本質を読み解き、日本への警鐘を鳴らし続けています。
小泉の強みは、現実主義にあります。希望的観測に流されず、データに基づいて冷静に分析する。ロシアを敵視するのでも、恐れるのでもなく、客観的に理解しようとする。その誠実な姿勢が、多くの人々の信頼を得ています。
ウクライナ戦争は3年目に入りましたが、終わりは見えません。消耗戦は続き、犠牲者は増え続けています。この戦争から、私たちは多くを学ばなければなりません。戦争は過去のものではなく、今も起こりうる現実だということ。平和は当たり前ではなく、守る努力が必要だということ。
小泉悠という研究者の存在は、日本にとって貴重な財産です。
その知見に学び、現実を直視し、未来に備える。それが、不確実な時代を生き抜く智慧なのです。
ここまで、時間を分けてくださり、ありがとうございます。
もし、まだ少しだけ余白が残っているなら。
もうひとつの視点を。
いづれかの言葉が、ゆっくり馴染みますように。
それぞれの一日を。



