「人生90年時代」──この言葉を日本社会に定着させた研究者がいます。秋山弘子(あきやま・ひろこ)氏は、30年以上にわたる全国高齢者追跡調査を通じて、日本の高齢者の実態を科学的に解明し、ジェロントロジー(老年学)という学際的学問を日本に根付かせた第一人者です。東京大学高齢社会総合研究機構の創設に携わり、現在も東京大学名誉教授として、長寿社会の課題解決に取り組み続けています。
秋山氏の研究が画期的だったのは、高齢者を「支えられる存在」としてではなく、「社会に貢献できる存在」として捉え直した点です。データに基づいて「約8割の人が75歳半ばまで自立して生活できる」ことを明らかにし、健康寿命の延伸と、元気な高齢者が活躍できる社会づくりの必要性を提唱してきました。千葉県柏市での「長寿社会のまちづくり」実験など、産官学民が協働する実践的な取り組みは、国内外から注目されています。
「住み慣れたところで、自分らしく年をとる」という「Aging in Place」の理念。これを実現するための社会インフラをどう整えるか。秋山氏の研究は、単なる学術的な関心にとどまらず、超高齢社会を迎えた日本が世界のフロントランナーとして示すべきモデルづくりに直結しているのです。
秋山弘子氏の基本情報
- 氏名(ふりがな): 秋山弘子(あきやま・ひろこ)
- 生年月日: 1947年生まれ(詳細非公開)
- 学歴: 岡山県立朝日高校卒業、イリノイ大学Ph.D(心理学)取得
- 経歴: 米国国立老化研究機構(National Institute on Aging)フェロー、ミシガン大学社会科学総合研究所研究教授、東京大学大学院人文社会系研究科教授(社会心理学)、東京大学高齢社会総合研究機構特任教授、日本学術会議副会長などを歴任
- 現職: 東京大学名誉教授、東京大学未来ビジョン研究センター客員教授、東京大学高齢社会総合研究機構客員教授、一般社団法人高齢社会共創センターセンター長
- 専門: ジェロントロジー(老年学)、社会心理学
- 紹介文: 日本における老年学研究の第一人者。30年以上にわたる全国高齢者の縦断調査を通じて、日本の高齢者の実態を科学的に解明。近年は産官学民協働のリビングラボや長寿社会のまちづくりにも取り組み、人生100年時代にふさわしい生き方と社会のあり方を追求している。
30年の縦断調査が明らかにした高齢者の真実
秋山弘子氏の研究で最も特筆すべきは、1987年から開始された全国高齢者パネル調査です。全国の約6,000人の高齢者を20年以上にわたって追跡し、心身の健康、経済状態、人間関係の変化を継続的に調査しました。この種の大規模縦断研究は、当時の日本にはほとんど例がなく、秋山氏が米国から帰国後、「日本には科学的データがない」という課題意識から立ち上げたものでした。
この調査から浮かび上がったのは、従来の高齢者イメージを覆す事実でした。「約8割の人が75歳半ばまで自立して生活できる」「男女ともに10年間で平均11歳も若返っている(歩行速度の比較)」──これらのデータは、高齢者が決して「弱者」ではなく、多くが元気で活動的であることを示しました。ただし、75歳を過ぎると多くの人が緩やかな虚弱化を始めることも明らかになり、この時期への対応が重要な課題であることが浮き彫りになりました。
秋山氏は、この研究成果を単なる学術論文にとどめず、政策提言や社会実験に活かしてきました。「科学的データに基づいて政策を決める」という姿勢は、米国での研究経験から学んだものです。日本の高齢化対策が「カンで決められている」ように見えたという率直な指摘は、エビデンスに基づく政策形成の重要性を示しています。この姿勢が、後の東京大学高齢社会総合研究機構の設立につながっていくのです。
「Aging in Place」という新しい老後観
秋山氏が提唱する「Aging in Place(住み慣れたところで自分らしく年をとる)」という理念は、現代の高齢者支援の基本的な考え方となっています。高齢になったら施設に入るのではなく、住み慣れた地域で、自分らしい生活を続けられる社会を目指す。この実現には、医療、介護、住宅、交通、商業など、あらゆる社会インフラの再構築が必要です。
千葉県柏市の豊四季台団地での社会実験は、この理念を具体化した先駆的な取り組みです。高齢化が進む大規模団地で、UR都市機構、柏市、東京大学、地域住民が協働し、高齢者の就労の場づくり、在宅医療・介護体制の構築、多世代交流の促進などに取り組みました。特に注目されたのは、定年退職後の高齢者が農業や保育などの分野で働ける仕組みづくりです。
この「セカンドライフの就労」モデルは、従来の「60歳定年・余生」という考え方を根本から変えるものでした。元気な高齢者が社会に貢献し、生きがいを持って働き続けることで、「支えられる側」から「支える側」へと役割が転換します。ワークシェアリングを活用し、無理のない範囲で働く。週2日、1日3時間など、柔軟な働き方が可能な仕組みは、現代の高齢者雇用のモデルとして広がりつつあります。
サクセスフル・エイジングの再定義
秋山氏の研究で興味深いのは、米国で提唱された「サクセスフル・エイジング(幸福な老い)」という概念を、批判的に検証している点です。1987年に米国の老年学者ジョン・ローとロバート・カーンが発表した論文は、「年をとっても健康で自立し、社会に貢献できることが重要」という理念を示し、米国社会に大きなインパクトを与えました。
しかし、秋山氏はこの「自立の神話」に疑問を投げかけます。すべての高齢者が完全に自立し、社会貢献できるわけではありません。病気や障害を抱える人、介護が必要な人も、尊厳を持って生きる権利があります。「自立できなければ失敗」という価値観は、多くの高齢者を苦しめることになりかねません。秋山氏は、上野千鶴子氏らとの共著『ケアという思想』の中で、「自立の神話を解剖する」という論考を発表し、より包摂的な老後観を提唱しています。
この視点は、社会老齢学において極めて重要です。健康で活動的な高齢者だけでなく、何らかの支援を必要とする高齢者も含めて、すべての人が「自分らしく」生きられる社会をどう構築するか。秋山氏の研究は、この問いに真摯に向き合い続けています。包摂的な社会の実現こそが、真の長寿社会だという信念が、その研究の底流にあるのです。
産官学民協働という新しい研究スタイル
秋山氏の研究スタイルで特筆すべきは、産官学民協働のアプローチです。2009年に東京大学に設立された高齢社会総合研究機構は、医学、看護学、工学、心理学、社会学、経済学、法学、教育学など、あらゆる分野の研究者が集まった学際的組織です。しかし、それだけにとどまりません。産業界、自治体、地域住民が対等な立場で参加し、実際のまちづくりを推進するプラットフォームとして機能しています。
秋山氏は、「学内での分野横断的な連携にとどまらず、産業界、自治体、地域住民が手を取り合って活動する」ことの重要性を強調します。高齢社会の課題は、大学の研究室だけで解決できるものではありません。現場の声に耳を傾け、実際に試してみる。うまくいかなければ修正する。このリビングラボ(生活実験室)の手法は、イノベーションを生み出す新しい研究スタイルとして注目されています。
また、秋山氏は日本学術会議副会長を務めるなど、学術界全体のリーダーシップも発揮してきました。社会技術研究開発センターの研究領域「コミュニティで創る新しい高齢社会のデザイン」の研究総括として、全国各地の取り組みを支援し、ネットワークを構築しています。研究者同士、研究者と実践者、日本と海外──様々なレベルでの交流と協働が、秋山氏の研究を豊かにしてきました。
この先に進む前に、ほんの一息
現代社会での応用と実践
秋山氏の研究成果は、現代日本が直面する様々な課題への処方箋となっています。2025年には団塊の世代がすべて75歳以上となり、2025年問題が本格化します。医療・介護のニーズが急増する一方で、労働力不足も深刻化する。この難題に対して、秋山氏は「貢献寿命の延伸」という新しい概念を提唱しています。
貢献寿命とは、健康寿命を超えて、社会に何らかの形で貢献できる期間を指します。完全に自立していなくても、少しの支援があれば働ける、地域活動に参加できる──そうした「ゆるやかな社会参加」の形を広げることで、高齢者の生きがいと社会の活力を同時に高めることができます。これは、「支える側」と「支えられる側」という二分法を超えた、新しい社会モデルといえるでしょう。
また、人生100年時代のライフデザインについても、具体的な提言を行っています。「人生50年時代」の社会インフラは、もはや通用しません。60歳でリタイアして余生を過ごすのではなく、セカンドライフを主体的に設計する。学び直し(リカレント教育)、キャリアの複線化、地域への社会参加──選択肢は多様です。秋山氏自身が、70代後半の現在も精力的に研究・教育活動を続けている姿は、その実践そのものといえます。
さらに、高齢者向けシニアビジネスの開発においても、秋山氏の知見は重要です。ただし、「シニア向けビジネスで儲けようという発想は禁物」と警鐘を鳴らします。真に高齢者の立場に立った商品・サービス開発には、当事者の参加が不可欠。リビングラボの手法を活用し、高齢者と共に創り上げる。このアプローチが、日本発のイノベーションを生み出し、アジアに広がるシニア市場への展開にもつながると期待されています。
代表書籍5冊紹介
1. 『新老年学 第3版』(東京大学出版会、2010年)
日本における老年学の決定版テキスト。医学、心理学、社会学、経済学など多様な分野から高齢社会を総合的に解説した学際的な一冊です。秋山氏が編者として、日本の老年学研究の最前線をまとめています。専門家だけでなく、高齢社会に関心を持つすべての人に読んでほしい基本書です。
2. 『東大がつくった高齢社会の教科書』(ベネッセ出版、2013年)
東京大学高齢社会総合研究機構の研究成果をわかりやすくまとめた一般向けの書籍。健康、住まい、経済、社会参加など、高齢期の生活に関わるあらゆるテーマを網羅しています。科学的根拠に基づきながらも、実践的で読みやすい内容が特徴。人生後半を豊かに生きるためのヒントが詰まっています。
3. 『高齢社会のアクションリサーチ』(東京大学出版会、2015年)
柏市での社会実験をはじめとする、産官学民協働のまちづくりの実践を詳細に記録した研究書。「現場で試して、検証して、改善する」というアクションリサーチの方法論が丁寧に解説されています。地域で高齢社会の課題に取り組む人々にとって、貴重な実践ガイドとなる一冊です。
4. 『発達科学入門1 理論と方法』(東京大学出版会、2012年)
人間の生涯発達を科学的に理解するための基礎を学べるテキスト。乳幼児期から高齢期まで、人間の発達を連続的に捉える視点が示されています。老年期を「衰退」ではなく「発達の一段階」として位置づける秋山氏の思想が反映された、発達科学の入門書です。
5. 『しあわせの高齢者学-「古稀式」という試み』(晃洋書房、2021年)
70歳を祝う「古稀式」という新しい儀式を通じて、人生後半の生き方を考える実験的な一冊。成人式のように、70歳という節目を社会全体で祝い、新たなステージへの門出とする。この発想は、長寿を前向きに捉え直す象徴的な取り組みとして注目されています。
まとめ
秋山弘子氏は、30年以上にわたる科学的研究を通じて、日本の高齢社会の実態を解き明かし、その課題解決の道筋を示してきた研究者です。「データに基づいて政策を決める」という姿勢、「現場で試して検証する」というアクションリサーチの方法論、そして「産官学民が協働する」という新しい研究スタイルは、学際的学問としてのジェロントロジーを日本に根付かせました。
「人生90年、100年時代」は、単に長く生きるだけでなく、いかに豊かに生きるかが問われる時代です。健康寿命の延伸、Aging in Placeの実現、セカンドライフの就労、貢献寿命の延伸──秋山氏が提唱するこれらの概念は、すべての世代が知っておくべき重要な指針といえるでしょう。
日本は世界で最初に超高齢社会を迎えた国として、長寿社会のフロントランナーです。その課題をどう解決し、どんなモデルを世界に示せるか。
秋山氏の研究は、この問いに真摯に向き合い続けています。70代後半となった今も、精力的に研究・教育活動を続ける秋山氏の姿は、まさに「生涯現役」「貢献寿命の延伸」を体現するものです。
その温かな眼差しと科学的厳密さを兼ね備えた研究は、これからも多くの人々に勇気と希望を与え続けるに違いありません。
ここまで、時間を分けてくださり、ありがとうございます。
もし、まだ少しだけ余白が残っているなら。
もうひとつの視点を。
いづれかの言葉が、ゆっくり馴染みますように。
それぞれの一日を。



